桃色

 朝のホームルームの時間。教室には毎月一回、月初めに行われる風紀チェックのための行列が作られていた。ざわざわとした喧騒の中、男女混合の出席番号順に並ばされ、頭髪や制服の着こなし等に乱れがないかをクラスの風紀委員が確認していく。

「ん、はオッケーっと」
「……」

 すれ違いざま、透き通るように美しい金色がふわりと靡いていた。
 いつもどおり、大して見るところがないわたしのそれは二、三歩歩くついでにちらりと視線を向けられるだけ終わってしまう。けれど、わたしのクラスの場合はそもそも風紀委員の平古場君が思いっきり金髪(!)なため、基本的には誰もがそんな感じだった。長くてもせいぜい10秒くらいだろう。聞くところによると平古場君のそれは至ってゆるく、よっぽどとんでもない違反でもしない限り大概のことは大目に見てくれるらしい。いいのか悪いのかはまた別の問題として、一部のクラスメートたちからは非常にありがたがられているし、わたしもわたしで平古場君の金髪を間近で見ることができるこの時間は決して嫌なものではなかったりする。

「はあ……まーたお前ら、わんが怒られるあんに」
「えー、だってこっちの方が可愛いじゃん」
「別にいーじゃん、凛うぜー」
「つーか自分も風紀委員のくせに金パとかマジ爆笑なんだけど」
「わんはいいんだよ、風紀委員の特権! あー、とにかく今だけでも地味にしとけって。先公うるせーんやし」

(、)

 順番が終わってすぐに聞こえたそのやりとりに、思わずこっそりと振り返る。あくまでも軽く。とは言え、呆れたような困ったような、何とも言えない口調の平古場君から注意を受けていたのはクラスの中でも目立つグループに所属する子たちだった。
 金髪の平古場君と並んでも引けを取らないくらいに派手な髪色。メイクにネイル。そして、わたしと同じ制服とは思えないほどに短いスカート丈。……どこからどう見ても校則に違反しかしていないけれど、その隙のなさからくる自信からか、彼女たちは一切悪びれることもなく、眩しいくらいに堂々としていた。

(……すごいなあ、あの平古場君とあんな風に話せるなんて)

 校則を破っていること自体は単純によくないと思いながらも、あの平古場君と自然に、それも、あんな風にケラケラと笑いながら話せることは少しだけ羨ましくあったりもした。ちりちりとしたその感情はどこか嫉妬に似ている。けれど、つまらない言い訳をさせてもらえるとしたら決してそういうわけでもない。そもそもわたしはあまり男の子とは話さないし、中でも平古場君なんてカースト? ステージ? とにかくもう、その辺からして既にわたしとは違いすぎている以上、話さないと言うよりは話せないに近い存在だ。
 だから、恋愛感情なんて烏滸がましい気持ちは抱くはずがない。けれど、どこか憧れのような気持ちは抱いていた。
 きっかけは、たまたま同じ班になった遠足のとき。ブランド物、ましてや男の子のそれなんてさっぱりわからないわたしですらお洒落で格好いいと感じた私服姿だったと思う。けれど、平古場君の場合は特別な日ではなくてもそうだった。一部の人と同じように明るかったり長かったりする髪でも、みんなと同じように日に焼けた制服姿でも、どこか違う。元々の雰囲気からしてそれだけ華やかと言うか、パッと目を惹くような何かがあって。
 ……ついつい目で追ってしまうような、憧れや羨望。本来であればそれは同性の、それこそ彼女たちみたいな女の子に対して抱く感情なのだろう。けれど、男の子なのに。それとも、男の子だからか。明確な理由こそはっきりとしないものの、わたしにとってのその対象はなぜだか男の子、それも、まともに話すらしたこともない平古場君だったのだ。

***

『帰りに詰め替え用の柔軟剤を買ってきて下さい。母』

 帰宅ついでにおつかいを頼まれたわたしは、自宅からよりも学校からの方が近い、市内では大きめのドラッグストアに立ち寄っていた。よそ見することなく真っすぐそのコーナーに向かい、いつもの柔軟剤だけを手に取る。あくまでも単なるおつかいである以上、特に他に見るものもなければ買うものものないはずだったのだけれど。

「、」

 レジに並ぼうとしたそのとき、うっかり視界に入ってしまったその棚を前に思わず足を止める。陳列されていたのは、透明の小瓶に詰められたマニキュアだった。いわゆる普通のものはもちろん、ラメやパールが入っているもの。カラフル、キラキラ。色も種類も豊富で、キャンディーのような宝石のような、女子の憧れが詰まったそれらは決して高くはなく、お小遣いの範囲内で買えてしまうような値段だ。
 ……ちょっとした誘惑のようなそれらを前に少しだけ考える。決して元から欲しかったものと言うわけではない。ましてや衝動的な思いからのそれは、いわゆる典型的な"無駄遣い"になってしまうのだろう。けれど。

***

「ありがとうございましたー」

 ちらりと視線を向けられるだけで終わってしまった風紀チェック。間近で見た平古場君の金髪。そして、クラスメートの可愛くてお洒落な女の子たち。
 言い訳に相応しい条件が揃いに揃ってしまっていたわたしはあっさりとその誘惑に負けてしまっていた。

(……やってしまった。けど、後悔はしていない。多分)

 何とも言えないくすぐったい気分になりながら受け取ったレシートを見直す。柔軟剤と共に刻まれた"マニキュア ¥324"の文字。それはわたしにとって初めて芽生えた感情、そして、それに対しほんの少しの勇気を出した証拠だった。

***

 次の日の朝、わたしはいつもより三十分近くも早い時間に登校していた。
 きょろきょろと周囲を見渡し誰もいないことを確認したあと、鞄の中から昨日買ったマニキュアをこっそりと取り出す。ラメやパールどころか何も入っていない、何ならほとんど自分の爪と変わらないような淡い桃色。どのみち派手な色なんて選べないし、素直に自分が一番可愛いと思ったものを選んだとは言え、我ながらいかにもなチョイスだと思う。塗ったところでギリギリバレないようなその色は、それこそ本当にお洒落で、もっとずっと前から努力している人たちから見たら"初心者の頑張っちゃってる感"が否めないものなのかもしれないけれど。

「(……誰もいないよね? よし、いざ……!)」

 ドキドキと、高鳴る鼓動を必死に押さえながら蓋を開ける。ぽつんと落とした小さな点にぎこちないながらも筆を伸ばしてみると、ひやりとした感覚と共に淡い桃色がじんわりと広がっていった。まるで小さな花びらのようになった自分の爪に、思わず心が躍る。初心者の醍醐味、そして様々な理由からくる背徳感もあったせいだろうか。たかだかマニキュアを、それも、小指の爪に塗っただけでいちいち大袈裟に感動してしまっていたそのとき。

「あん? ぬぅーがー。早えーなあ
「!?」

 ……いつもこっそりと盗み聞きしていた声だからこそ、わざわざ視線を向けなくてもわかってしまう。入口の扉から聞こえてきたそれは、紛れもない平古場君の声だった。

「(! うそ、ひひひ平古場くん、何で)」

 ヒュッと、掠れたような呼吸が喉の奥から漏れる。いつもこんなに早いのだろうかとか、(一応は名前が出た以上)話しかけられているのかどうかなんて考えている場合ではない。
 たとえ時間外のこととは言え、どんなにゆるかろうが何だろうが、平古場君はあくまでもクラスの風紀委員だ。昨日の子たちのように笑って話せる関係性ならまだしも、ろくに話もしたことがないわたしの場合、非常にまずい。万が一見つかってしまったら、風紀委員としての注意や没収はおろか、最悪、笑われたりバカにされたりしてしまう可能性だってある。
 とにかく見つからないように。わたしは必要以上に慌てながら、蓋もろくに閉めていないマニキュアを必死に覆い隠そうとしていた。けれど、次の瞬間。

「ひっ!?」
「おっと」

 カツンと音を立て、床を弾いたあと。机の上から見事に落下したそれは、最悪なことに平古場君の足元へコロコロと転がっていってしまっていた。

「……。やーの? これ」
「……!」

 終わった。バレた。それも、よりによって平古場君に。
 割れたり零れたりの惨事こそ免れたものの、もはやその正体自体は隠しようがなかった。

「ちちち違っ、これは、その……っ」
「あい? じゃあ誰のよ」
「そ、それは……」
「(でーじわかりやしーな、くぬひゃー)ま、誰のだっていいけどよー。へー……マニキュアねえ」
「(……うう、恥ずかしい。もうやだ死んじゃいたい)」

 ……決してダイレクトに笑われたりバカにされたりしているわけではない。けれど、拾い上げたマニキュアをしげしげと眺める平古場君の反応に、何とも言えない羞恥心がかあっと込み上げていた。多分だけれど、普通にバレてるんだと思う。下手に否定してしまったぶんそれが余計に気まずくて、ついつい顔を俯かせてしまったのだけれど。

「綺麗な色やさ。つーかこーゆーのするんだな。意外やし」
「っ……?」

 一度俯かせた顔を、おそるおそる上げてみる。視界に飛び込んできたのは、まるで何か面白いものを見つけた子供のように悪戯っぽい平古場君の笑顔だった。少しだけ意地悪そう。けれど、決して悪意からくるそれではない。思わず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。夢? いやまさか。こんな都合のいい夢、あるわけがない。

「なあー
「! は、はいっ!?」
「……見逃してほしい? これ」
「!」

 指先でつまんだマニキュアをぷらぷらと見せつけながら、平古場君は相変わらず悪戯っぽく笑っていた。多分きっと、深い意味なんてない。けれど、昨日の彼女たちへ向けていたものと同じような表情が、わたしに向けられている。……男の子の方からそんな表情を向けられることなんて初めてだったからだろうか。困惑と緊張、そして、どうしようもない嬉しさが入り混じったような感情が胸の奥をきゅうっと締め付け、わたしはなぜだか泣きそうな気持ちにすらなってしまっていた。

(……どうしよう。嬉しい。すごく、すごく)

 色々な意味で覚悟はしていたつもりだったからこそ、いけないことだとはわかっていながらも必死に、懇願するかのようにこくこくと首を縦に振った。

「見逃してやってもいいぜ、条件付きなら」
「え……?」
「爪。まだんとこあるばぁ? わんが残り塗ってやるさ」
「!?」

 つかつかと移動してきた平古場君は、あろうことかわたしの前の島田くんの席に(勝手に)どっかりと座りながら、早く手を出せと言わんばかりにヒラヒラと右手を動かしていた。どうやら、マニキュアの持ち込みを見逃す代わりに爪を塗らせろということらしい。

「え!? い、いや、ええ!?」
「ハハ、大丈夫大丈夫。わん美術得意やし」
「……(美術? いや、得意とかどうかとかの問題じゃなくて)」

 わけがわからないまま一瞬、時が止まる。平古場君の言うところの条件は、もはや意外を通り越して信じられないものだったのだ。
 塗ってもらう? 何を? 爪を? 平古場君に? ……いやいやいや。
 正直、ほんの一瞬想像しただけでも無理だった。普通に話をしたり笑顔を向けられるだけでもいっぱいいっぱいなのに、いくら何でもハードルが高すぎる。できることなら丁重にお断りしたい。けれど、遠慮からくるそれとは言え断っていいのかもわからず、わたしはピシと固まってしまっていた。
 え、いやだって。無理でしょ? あの平古場君だよ?

「うり、いいからさっさと手ー出せって」
「!?」

 しびれを切らした平古場君は、ぐいと強引にわたしの左手を掴んでいた。

「ひっ!? ちょっ、ひひひ、平古場君っ!?」
「あい? ハハ、ちっちぇーなあ。の手。つーか爪?」
「ーっ!?」
「オッケーオッケー。これなら簡単だしよ」

 ……平古場君の左手が、当たり前のように触れている。むしろ、触れているどころかほとんど握られているに近い。おまけにそのまま強制的に開かされ、指先一つ一つにじっくりと視線を注がれて。
 ボッと湯気が立ちそうなくらい、頬の色が一気に紅潮したのが自分でもわかった。もっとも、目線も指先も、既にその桃色にしか向いていなかった平古場君は、わたしがそんな風になってしまっていることなんて気づくはずもなかったのだろうけれど。

(どうしよう、死にそう……)

 ……ただひたすら、それがバレてしまわないように。わたしは再び顔を俯かせることしかできなかった。

***

「っし、完成。うりー、見てみー。
「、」

 どことなく得意げな平古場君の声と共にようやくそれに視線を向けることができた。誰もいない朝の教室で一枚。そして、また一枚と染め上げられていった桃色。少なくとも、わたしにとっては気が遠くなりそうなくらい長く歯がゆく感じた時間だったし、ずっと俯いていたままだったせいか、はっきり言って何も見えてないし、覚えてもいない。けれど。

「わ……」

 片方の、それも、小指だけだったはずの爪は満開の花となってわたしの指先に咲いていた。思わず感嘆の声を漏らしながら、自分のそれと平古場君のそれを見比べてみる。自分で塗った、ぎこちなくよれた爪。そして、平古場君が塗ってくれたその他の爪。
 ……単なる気まぐれからくる暇潰し。それこそ平古場君にとっては、得意な美術の延長に近いものだったのかったかもしれない。けれど、お世辞を抜きにしても平古場君が塗ってくれたそれは本当に綺麗で丁寧な仕上がりだったのだ。

「どうよ?」
「すごい……そ、その。上手なんだね。平古場君」
「だろ? わん姉貴がいてよー。よく命令されるんさ、右手やれってよ」
「そ、そうなんだ……」
「ま、つーことで。今回だけな」
「、」

 相変わらず緊張していたものの、このときようやくまともに平古場君と会話ができた気がする。ずっと密かに憧れてるだけで、ろくに話もできなかったわたしが。それだけでも充分すぎるくらいにすごいことで、なぜだか再び泣きそうな気持ちになった。

(……ああ、もしかしたらこれが)

 少しだけ遅咲きの春。微かながらもそれを自覚した瞬間、時計の針が示す時間と遠くの方からやって来るクラスメートの喧騒に気がつく。
 ……きっと、ほんの数分後には平古場君は平古場君で、そして、わたしはわたしでいつもの日常に戻っていくのだろう。誰も信じてはくれないだろうし、わたし自身もいまだに信じられない、夢のような出来事だったけれど。

「ひ、平古場君」
「あい?」
「……そ、その、ありがとう……本当に」
「ハハ、いいって。その代わり、先公に見つからんようにしろよ」
「、」

 そう、何でもないことのように笑いながら自分の席へと戻っていく平古場君を静かに見送ったあと。爪はもちろん、耳も頬も。そして、いつの間にか心までもをその色に染め上げられてしまっていたわたしは改めてその淡い桃色をそっと眺めた。
 
(……そう言えば、季節ももうすぐ)



(2008/02/25)