逆襲のパンケーキ

 初めての出会いは、大好きだった絵本の中の世界。ぐりとぐらに、ねずみくん。しろくまちゃんに、ちびくろサンボ。出てくる名称に多少の差はあれど、ふっくらとまん丸でそれはそれは美しいきつね色をしたそのビジュアルに、瞬く間に一目惚れ。産まれて初めて現物を食べたときは、この世にこんなおいしいものがあるのかと幼いながらに本気で感動したぐらいだ。
 とにかく、小麦粉と牛乳と卵と砂糖を混ぜ合わせて焼いたもの。はい、もうおわかりですね。パンケーキのことです。(※面倒なので以下すべてパンケーキに統一)もうずっと変わらない"わたしの好きなもの"。正直、パンケーキに関しては深い深い思い入れがありすぎて、もはや単なる好物という感情を超えていると思う。


 午後16時過ぎ。恋人である跡部景吾の自宅(別名:跡部王国)での、いわゆるおうちデートにて。やたらと長い名前の紅茶をいただきながら呟いてしまったその一言がすべての発端だった。

「はあ、ケーキが食べたいな」
「ケーキ? どこの店のだ?」
「あ、ううん。お店のじゃなくて自分で作ったパンケーキが食べたいの」
「ハッ、相変わらず庶民くせえな」
「、」

 ああ、まただと。少しだけ温くなった紅茶と一緒に、思い浮かべた言葉を呑み込む。
 いつだって自分のものさしでしか物事を見ておらず、己の価値観だけを信じて疑わない景吾は、それにそぐわないものはすべて否定し、遠慮なくバカにする。例えば、ある日の放課後にて。

「あ、録画予約してくるの忘れちゃった」
「録画? 何のだよ」
「いや、最近ハマってるドラマがあって……景吾知ってる? 水曜22時からの」
「アーン? 知らねえし、見てる暇ねえよそんなもん」
「……」


 また例えば、ある日の休日にて。

「見て見て、プーさん売ってる。可愛い」
「プーさん? ああ、あのケツのデカい黄色いクマか」
「……」


 このとおり、(仮にも)彼女であるわたしの好きなものだって、容赦はない。恋人の好きなものだから自分も好きになろう。そう、変に寄せてこられるよりはいいのかもしれない。けれど、だからと言って一切その気持ちがないのも、それはそれで考えものだ。
 ましてや景吾の場合、どうにもこうにもその影響力がすごい。流されまいとは思っていても徐々に徐々にとその言葉は浸透していき、いつしかわたしの"大好き"だったはずものはすべて、"好き"、もしくは"普通"に成り下がってしまっていた。

(どうしてだろう、水曜日のドラマもプーさんも、確かに好きだったはずなのに)

 ……育ってきた環境が違いすぎる以上、決して悪気があるわけではないのはわかっている。けれど。けれども。

「何だか知らねえけど今日はうちにあるケーキで我慢しろ。ザッハトルテとサントノーレと、ああ、あとタルトか。タルトだったらマスクメロンの――」
「いや、ごめん。そういう意味で言ったんじゃないしいいよ」
「バーカ、遠慮してんじゃねえよ」

 白を基調とした品のあるデザインのテーブルには、跡部王国おかかえのパティシエ特製ケーキがずらりと並べられていた。見た目の美しさはもちろんのこと、きっと、どんな有名店も顔負けの味なのだろう。けれど、このときのわたしは非常に不機嫌だった。どんなに立派なケーキを並べられたところで、水曜日のドラマやプーさん以上に大好きなパンケーキを否定され、バカにされた傷が癒えるわけでもない。むしろ、それらのケーキはわたしにとって、パンケーキに対する冒涜のような気さえしていた。

「(何よ、そのよくわからないケーキ? の名前シリーズは)」

 ……本当は、意地でも食べるべきではなかったのかもしれない。けれど、一度出された食べ物を粗末にするのはわたしの美学に反する。
 結局、気がつくとフォークを握っていたわたしはザッハトルテという何だかよくわからない強そうな必殺技みたいな名前のケーキ(要するにチョコレートケーキだった、何か金粉乗ってたけど)を選び、それだけ頂いたあと早々に跡部王国からおいとました。
 何が悔しいかって、その金粉の乗ったチョコレートケーキが三ツ星どころか二千星ぐらいにおいしかったこと。そして、毎日毎日あんなケーキばっかり食べている景吾からしたら、確かにパンケーキ、それも、一般庶民の手作りのものなんて否定されても仕方がないものなのかもしれない。……ほんの一瞬だったとはいえ、大好きなパンケーキに対して、わたし自身までもがそう思ってしまったことだ。


 何とも言えない気分で帰宅したあと、わたしはすぐに自宅のキッチンに向かった。

(あんなすごいケーキじゃなくたって、パンケーキだったらたったこれだけの材料でできるんだから。チョコもメロンもいらないもん)

 取り出したのは、小麦粉。砂糖。卵。牛乳……はちょうど切れていたから、普通の水道水。(わざわざ買いに出るのも億劫だったから、仕方がない。代用で大丈夫だろう)作り方はとても簡単。適当な量のそれらを全部混ぜ合わせるだけ。普段作るものよりもやたらと色が薄くてとろとろだとは言え、ものの五分もかかわらないうちに作り上げたその生地を、フライパンの上でうすーく、まるーく伸ばす。ふつふつ、ぺったん。ふつふつ、ぺったん。まるで何かにとり憑かれたかのように、何枚も何枚もひたすら無心で焼き続けた。

 すくって、焼いて、ひっくり返して。
 また、すくって、焼いて、ひっくり返して。


「何やってんの!」
「っ!?」

 ひたすら無心でパンケーキを焼き続けるわたしの手を止めたのは、パートから帰って来たお母さんの怒鳴り声だった。
 ……一体どれくらいの時間が経っていたのかはわからないけれど(お母さんのパートが終わる時間……うそ、もう18時半!?)ただ一つ言えるのは、焼き上げたパンケーキが自分でも気がつかないうちにとんでもない枚数になってしまっていたことだ。お皿の上に二十一枚。プラス、いまだにフライパンの上で焼かれている一枚。合計、二十二枚(!)。
 ……自分で焼いておきながら、見ているだけでぎょっとしてしまう量だと思った。けれど、元はと言えば自分が食べたくて作ったものだ。だから当然、それは誰に言われなくても自分で処理するはずだったのに。

「もう、何よ。夕飯前にこんなにパンケーキなんか作って」
「(いちいちうるさいな、なんかとか言うなよ)……」
「お母さん食べないからね、責任持って全部自分で食べなさいよ」
「はあ? うるさいな、最初からあげるなんて言ってないでしょ! 全部自分で食べるんだから放っといてよ、バカ!」
「んまっ!?」

 わたしは横から口を挟んでくるお母さんを怒鳴りつけたあと、そのままパンケーキを抱え込み自分の部屋へと逃げ込んだ。

「待ちなさい! あんた片付けもしないで! これじゃ夕飯の支度が◎×△●〒☆※◆Ω卍〜!?」
「(もう、うるさいうるさいうるさいうるさい!)」

 後片付けもしていないぐちゃぐちゃのキッチンからは、もはや何を言っているのかわからないほどにヒステリックなお母さんの声が聞こえていた。……正直、お母さんに関してはほとんど八つ当たりだった。ただ、一日のうちに大好きなものを二度も否定されたのだから仕方がない。あとが怖くないと言えば嘘になってしまうけれど、自分と、そして、大好きなパンケーキを守るため、全部無視することにした。


 部屋のドアを乱暴に開ける。ベッドの上に座り込むと同時に、わたしはどうにか崩すことなく持って来れたパンケーキの塔を携帯電話のカメラで撮影した。ときにはアップにしてみたり、ときにはその塔をわざと傾けさせてみたり(素手だけど気にしない、だってどうせ、自分が食べるんだから)ときには綺麗に加工してみたり。何枚も。いや、何十枚も。携帯の画像フォルダが様々なアングルのパンケーキの写真で埋め尽くされるほど撮りまくった。目的はもちろん、わたしの大好きなパンケーキを否定した景吾に送りつけてやること。要するに、復讐のためだ。何の復讐だよって感じかもしれないけれど、せいぜいわけもわからずに嫌な顔をすればいい。

「(アーン? ……って、何だこの大量の写真は)」

 返信を待ちつつ、嫌そうな景吾の顔を想像して少しだけ元気になったわたしは、いまだ手をつけていないパンケーキに視線を向けた。お皿の上でふっくらとまん丸に仕上がっている、見本のように美しいきつね色。生クリームはもちろん、蜂蜜やメープルシロップすらかかっていないシンプルなものだったけれど、二十二枚(!)という驚異的な高さがあるせいか、見た目だけはまるでお洒落な海外ドラマにでも出てきそうだと思った。

「(……こんなにおいしそうなのに。景吾もお母さんもバカだ)」

 うっとりと、ひとときの自己満足を楽しむ。見た目も最高だけれど、匂いもいい。……散々イライラしたせいか、何だかお腹も空いてきた。
 さっきと同じように素手のまま、一番上のそれをわしっと掴む。同時に、溜め込んでいた鬱憤が急に爆発するかのように、わたしの食欲も爆発していた。
 ストレスからくるドカ食い。おそらくそれの一種だろう。勢いは止まらないまま、一枚、また一枚。お洒落な海外ドラマから一変、飢えたゾンビが登場するグロテスクなホラー映画のように、ガツガツと口の中に貪った。ところが、次の瞬間。

「おえっ!? まっず!?」

 ……さっきまではあんなに食べたかったはずなのに、何も付けずに食べたせいか、はたまた牛乳を水道水で代用したせいか、そのパンケーキは驚くほどにパサパサで、死ぬほどおいしくなかった。とんだ見掛け倒し以外の何ものでもないそれを意地とプライドから必死に食べ続けたけれど、さすがに気持ちが悪くなって。
 ……結局完食には至らず、十五枚目(!)でダウンした。

(ああ、そう言えば景吾の家でも一つ食べてたんだっけ。もう名前すら忘れてしまったけれど、金粉が乗ったチョコレートケーキを。……ダメだ、色んな意味で気持ち悪い。窓を開けて外の空気を吸おう)

 口元を押さえながら、よろよろと窓辺に向かう。夜空にはまるで、今さっきまでわたしが必死で食べていたパンケーキのようにまん丸のお月様が浮かんでいた。
 泣きたくなるくらい美しいその月に、思わず見とれる。ただ、それを見ているわたしとわたしの部屋はそれはそれはひどい惨状だった。手や口の周りは十五枚も食べたパンケーキのクズだらけで、部屋にはとうに崩れてしまったパンケーキの塔だったものと、至る所に散らばった食べ残しの残骸。まさしく月とすっぽんならぬ、月とパンケーキ(の残骸)だ。
 ……自分で蒔いた種だということは重々理解している。けれど、あまりの差に余計に気持ちが悪くなったわたしは、その美しい月を見ながら盛大に吐いてしまった。

「バーカ」

 ……心なしか、どこかで呆れたように笑う景吾の声が聞こえた気がした。


 いまだに気持ちが収まらないまま、部屋の掃除(と、汚物の処理)に追われて約数十分。景吾からの返信はいまだにない。けれど、不思議と怒りや悲しみといった感情はなかった。
 なぜかって、景吾からの返信が来なければ来ないほど、このとびっきりパサパサでまずいパンケーキを食べさせてあげたい気持ちがより一層強くなったからだ。
 いつ焼こう、明日か、それとも明後日か。味は一切保証しない。けれど、愛情だけは込めて、たくさんたくさん、嫌と言うほど焼いてあげるつもりだ。大丈夫、たとえ景吾が無様に吐いてしまってもわたしは絶対バカになんかしない。

(決して死なば諸共精神ではない。人の価値観は変わるものだって、教えてくれたのは景吾だから)



(2008/10/08)