高嶺の薔薇 極一部の生徒のせいでぶっ飛び私立校としてネタにされがちだけれども、きちんと文部科学省を通している以上、我が氷帝学園だって一応は普通の学校なのだ。よその学校のように普通にLHRもあり、普通に席替えもする。 「お前何番? 俺8番」 「32番ってどこ? げ、一番前じゃん。最悪!」 「えっ、ちーちゃん16番? 嘘でしょ? やった! 同じ班だよ!」 ちょうど月末ということもあり、その日のLHRは数ヶ月に一度行われる席替えの時間にあてがわれていた。それぞれの結果に一喜一憂するクラスメートたちを尻目に、席替え用のくじが置かれた教卓の前に並ぶ。どこどこの席がいい、誰々の隣がいい。特にそういった希望がなかったわたしは、非常に早い段階でその一枚を引いた。直前に祈ることなんてもちろん、必要以上にごそごそと漁ることもしない。 「(14番か。どこの席だろう)」 直感で引いたくじを片手に、黒板に表示された座席表とその番号を照らし合わせる。結果は真ん中の列。それも、前から二番目の席だった。どうせなら後ろの方がよかったなんて少しだけ残念に思うものの、決まった以上は仕方がない。さっさと自分の座席に戻りながら、新しい座席に移動するため机と机が行き交う波の中に飛び込む。 そう、ここまでは普通も普通な、いつもどおりの席替えだったのだけれど。 (……うそ、どどどどどどうしよう全然普通じゃない!?) ヒュッと呑み込んだ息が、わたしの喉元を掠るように鳴らした。席替え、それも、くじ引きという公平なやり方で決まった以上拒否するわけにはいかない。ただ、ようやく辿り着いた新しい座席の隣に座っていたのは、簡単に隣に机を並べてもいいのか戸惑ってしまうようなとんでもない相手だった。……おかしいな、幻覚とわかっていても、背中に背負った薔薇の花のオーラ(?)が見える。 何を隠そう、今わたしの隣の席に座っているこの跡部景吾こそが、冒頭で言った"極一部の生徒"だった。クラスや学年の垣根を超えた、学校一の有名人。容姿、学力、運動能力、家柄、存在感。すべてにおいて圧倒的なそれらだけでも充分すぎるくらいなのに、跡部景吾の場合は更なるオプションまで付いてくる。学校全体を司る生徒会の会長。全国大会に出場できるほどの実力を持つ男子テニス部の部長。そして極めつけはこれだ、学校のトップアイドル。(少女漫画でしか見たことがないような個人のファンクラブが現実に存在し、セオリーどおり数多の女子が所属しているらしい) ……ざっと羅列してみただけで、頭の奥がくらくらする。正直、ここまでくるともう何が何だかと言ったところだけれど、事実としてそんなとんでもない男子の隣を引いてしまったものだから大変だ。もちろんわたしだって、同じクラスになったその日から決して興味がなかったわけではない。ただ、わたしのそれは例えるのであれば芸能人とか、それこそ少女漫画のヒーローのように二次元とか、あくまでも手の届かない存在に向けてのものであって。素直に認められるぐらいの、単なるミーハー心。それを弁えていたつもりだからこそ今まで騒ぐことはなかったし、ましてや近づきたい、仲良くなりたいだなんて思ったこともなかった。けれど。 「(……すごい。一生関わることもないと思っていたファンタジーな存在がすぐ隣に)」 チラッと。本当にチラッと。一瞬だけその横顔を盗み見ながら、おずおずと遠慮がちに机を並べる。すると、跡部景吾もまた同じように、一瞬だけこちらに視線を向けたのがわかった。 「(!)」 冷静に考えてみれば、跡部景吾のそれは一応の確認程度の行動だったと思う。それなのに、わたしは不意に向けられたその視線を避けるようにしながら慌てて顔を俯かせていた。……しまった。自意識過剰にも程がある。何ならこっちの方ずっと恥ずかしい。けれど、無理もない。決して変な意味での感情はないとは言え、横顔だけでもこの破壊力なのだ。正面からまともに顔を見てはいけない。それこそいまだに消えない薔薇の花のオーラに殺される。 隣の席の相手なんて誰であっても構わない。つい数分前までは本気でそう思っていたはずなのに、無意識のうちにそうしてしまった自分の反応やチクチクと突き刺さり始めていたクラスメートたちの視線から、改めてとんでもない席を引いてしまったことを痛感する。(特に、あまり話をしたことがない派手なグループの女の子たち。きっと「新しく跡部様の隣になった子だ」「てゆーか誰だっけあの子?」とか言われてるんだろうな……。すみませんです……どうぞお見知りおきを……) こうして、学校一の有名人"の隣の席"。紙切れ一枚と共にひょんなことからその肩書きを引き当ててしまったわたしは、過剰なほどに膨れ上がった謎の自意識と感じる必要もないはずのプレッシャーに押し潰されそうになりながら今後数ヶ月を過ごさなければならなくなってしまったのだ。 月曜日、火曜日、水曜日、木曜日。そして、本日金曜日。週明けから跡部景吾の隣の席になって、早五日。会話はもちろん、なるべく視界に入らないようにしているせいか(我ながら情けないけれど、入れないように、ではなく自ら入らないようにというところがポイントだ)今のところわたしの学校生活には大きな変化が見られなかった。けれど。 ……平和な学校生活を脅かしかねないその事件は、五時間目の数学の授業中に起きてしまった。 「(あっ)」 ノートを取っている最中、ほんの不注意から机の上の消しゴムを落としてしまった。コンンコンと、二度、三度。スーパーボール並みとは言わないけれど、ゴムと名が付くだけあって思った以上によく跳ねる。これがまだ、大人しく自分の足元にでも落ちてくれていたら何の問題もなかったのに。 「(! 嘘でしょ、またよりによって……)」 落としてしまった消しゴムの着地点は、真っ白で汚れ一つない跡部景吾の上履きの横だった。自分で拾うのはもちろん、こっそりと足を延ばして力技でこちらに寄せるのも無理がある、何とも言えない絶妙な距離だ。 ……無言でそれを見つめながら、じっとその救出方法を考える。例えば隣の席が他の誰かだった場合、その相手に応じて様々な選択肢がある。けれど、相手が話をしたこともない、それどころかそもそも存在を認識されているかすらも怪しい跡部景吾のこの場合、はたしてどんな選択肢があると言うのだろうか。 その1、丁寧に頼む。 「あああ跡部様、たたた大変恐縮なのですがわたくしめの消しゴムをですね、その、ひ、拾っていただけませんでしょうか……?」 (うわ、我ながらリアルすぎて気持ち悪い。なしだ) その2、いっそのこと振り切って頼む。 「ごめんべ〜さん、ちょっとそれ拾って!」 (いやいやいやいやいや。いくら何でも急に振り切りすぎだ。これもなしなし) その3、そもそも最初から落としたことに気づいていないふりをする。 「……」 (……いや、普通にこれだよね? だって跡部景吾だし……) 授業が終わるまで、20分弱。多少の不便さはあれど、とりあえずはテストでも何でもない普通の授業だ。消しゴムなんてなくたってどうにでもなるし、授業が終わり次第、隙を見て自分で拾えばいい。そう、自らその3の選択肢を選び、気づいていないふりを決め込むことにした、次の瞬間。 「、」 「(え)」 正直、気づかれてもいないと思っていた。けれど、どうやらそれは間違いだったらしい。チラと視線を落とした跡部景吾が、椅子に座ったままさも自然なことのようにスッと上半身を折り曲げる。そして。 「(!? えっえっ、ちょっと待ってちょっと待って、何してるのこの人!?) キラキラキラキラキラキラ。……薔薇の花のオーラが幻覚だったように、この謎の効果音もまた、わたしの幻聴なのだろうか。実際は、ただ消しゴムを拾ってもらっただけ。ところが、そんなよくある日常のワンシーンでさえも、当事者が跡部景吾というだけであっと言う間に非日常に変わってしまうから困る。 「……」 まるで一つの短い映画が終わったように。税別100円。買った場所は駅前のセブンイレブン。おまけに、途中で割れてしまわないようにカバーの四隅をカットまでしてあるわたしの消しゴムは、本当に男子の手なのか疑わしいくらいに美しい指先に摘ままれながら、トン、と、何事もなかったかのように机の隅に置かれていた。 「(どどどどうしようどうしよう。あっ、じゃなくてまずお礼を、あ、ありが……!? うそ、声が出ない……)」 人間、ありえない光景を目の当たりにしてしまうと本当に声が出なくなるんだって、この身をもって知る。拾ってくれた跡部景吾には本当に申し訳ない。ただ、予想もしていなかったその行為はもちろん、当事者の身として教室にちょっとしたどよめきまで起こさせてしまったことに関しては、どうしても感謝よりも驚きや罪悪感の方が勝ってしまって。 ……結局、わたしはきちんとしたお礼も言えないまま、隣の席になった初日のように顔を俯かせることしかできなかった。 (だってまさか、あの跡部景吾が他人が落とした消しゴムをわざわざ拾ってくれるなんて。ああ、ダメだ。平和が、平和が音を立てて崩れていく予感しかしない) 「……ない」 それに気づいたのは、事件からほんの小一時間ほど経ったあとのことだった。 「(そう言えば委員会のポスターって今週中に出さなきゃいけなかったんだっけ。どうせ暇だし、放課後下書きだけでもやっちゃおうかな……って、あれ?)」 件の消しゴムは、忽然とその姿を消していた。確かにしまったはずのペンケースの中はもちろん、こんなときにぴったりなある歌の歌詞のようにカバンの中も机の中も探した。けれど、不思議なことにどこをどう探しても見つからない。(まあ、小さいし、確かに見つけにくいものだけれども) ……別に、言ってしまえばたかだか消しゴムだ。失くしたところで大したダメージではない。とは言え、事実としてそれが消えてしまっている以上、様々な原因を考える。……あれ? わたしさっきもこんなこと考えなかったっけ? その1、しまったこと自体がそもそもの勘違い。 (……いや、記憶でも感覚でも、絶対にしまった。それは間違いなく断言できる) その2、しまったのち、どこかで再び落とした。 (この日の最後は、六時間目の選択授業(音楽)だ。ほとんど手ぶらの教室移動=五時間目の数学の授業以降、ペンケース自体触ってもいない) その3、最悪、何者かによって盗難。 (……いやいやいや。氷帝は治安もいいはずだし、まず、ものからしてその線は考えにくい。大体、貴重品類じゃあるまいし消しゴムなんてわざわざ盗むメリット……いやちょっと待ってまさかさっき跡部景吾が触れたやつだからとかじゃないよね!? うわ。やだこれちょっとありそう) もちろん、真相はわからない。ただ、あっさりと諦めてしまうには何となく悔しかったわたしはもう一度だけ近辺を探すことにした。まだまだ探す気だったのは半ば意地でもあったと思う。決して跡部景吾が拾ってくれたものだからというわけではなく、単純にないと困るからだ。 「……うう、面倒くさいな、もう。何でこんなことに……」 もはやなりふり構っていられない。どうせ誰もいないしと、ほとんど四つん這いのような状態になりながら、机の下に潜り込もうとしたそのとき。 「おい、何やってんだ」 「っ!?」 ……誰もいないと油断していたその場所で声をかけられたことよりも、わたしが驚いたのはその声の正体だった。薔薇の花のオーラやキラキラした謎の効果音は幻覚(及び幻聴)だったけれど、今は違う。生徒会の仕事でもあったのだろうか、書類の山のようなものを抱えながら不思議そうにわたしを見下ろすその姿も、意外にも認識されていたわたしの名前を呼ぶその声も、確かに。信じがたいことだけれど、確かに現実だったのだ。 ……ありえないことの連発に、いよいよ泣きそうにさえなる。いっそのこと「それより僕と踊りませんか」とでも言いながら現れてくれればよかったのに。なんて、こんなしょうもないことを考えている場合ではない。どうしよう、とりあえず何か答えなきゃ。何か。何か何か何か。 「! な、ななななな何でもない……です」 咄嗟に口を開いたものの、風船がしぼんでいくかのように段々と弱々しくなっていく言葉尻は、我ながら何とも情けないものだった。しかも、同級生なのに当然のように敬語。景吾だけに。全然面白くない。……ああもう、ダメだ。さっきからわたしちょっとおかしくなっちゃってる。 「探し物か?」 「(!? 何でもないって言ってるのに!)いいいいいや、別に大したものじゃ……」 「アーン? いいからはっきり言え、何だ」 「ひっ!?」 わかっている。跡部景吾としては、単純に疑問に思っただけだろう。(まあ、そりゃそうだよね。こんな、誰もいない教室で四つん這いになってる女子がいたら誰だって疑問に思うよ……)ただ、何度も言うように一生関わることもないと思っていたこっちの身にもなって欲しい。 ずいと、まともに直視できないほど美しい顔面が惜しげもなく押し出される。ダメだ、ちゃんと答えないと殺されそう。もちろん、その驚異的な顔面偏差値と薔薇の花のオーラに。(もうやだ、怖い。頼むからそんなにキラキラさせないでってば!) すっかり圧倒されてしまったわたしは、今にも消え入りそうな小声で答えた。 「そ、その、ちょっとけけけ、消しゴムを……」 「消しゴム? ……ああ、あの面白いカバーのやつか」 「!?」 「なあ、あれは何のためにいちいち切ってあるんだ?」 「!? !? !?」 ……いやいやいやいやいや。待って待って、何? 面白いカバーって。本当に意味がわからない。 正直、からかわれているのかと思った。けれど、当の跡部景吾の表情は至って真剣で、じっと真っ直ぐにわたし見つめてくるその眼差しからは、本当に純粋な疑問として投げかけているということがひしひしと伝わってきていた。(誰も気にしないようなそれでも、ある意味跡部景吾"だから"気になったのかもしれない。いじらしく四隅を切っていたあたり、相当珍しかったんだろうな……) ともあれ、相手が真剣である以上はこちらもまたそれに応えなければいけない。たとえ相手があの跡部景吾で、今から説明するそれが"なぜ消しゴムのカバーの四隅をわざわざ切ってあるのか"という、非常にしょうもない内容であってもだ。 「い、いやあれはその、ああすると途中で消しゴムが割れないから……ですね……」 「なるほど。便利じゃねーの」 カバーの四隅を切ってあった理由を説明するわたし。そして、いたく真剣な面持ちでその説明を聞き、なぜか感心さえしている(!?)跡部景吾。……一体何の会話だろうとは思いつつも、非常にシュールな光景に少しだけ緊張が解れる。けれど、次の瞬間。 「まあいい。で、どの辺で失くしたんだ?」 「えっ!? いや、その、失くしたって言うか……って」 隣の席を引き当ててしまったとき。消しゴムを拾ってもらったとき。存在すら認識されていないと思っていたはずなのに、はっきりと名前を呼ばれたとき。改めて、この五日間で色々なことが起きてしまったけれど、それらが一気に霞んでしまうくらい、今世紀最大のありえない光景にわたしはぎょっと、これ以上ないくらいに目を見開いていた。 万が一この現場を誰かに目撃されてしまったら、次は消しゴムを盗まれるどころじゃ済まない。多分、今度こそ本当に殺されると思う。 「!? ちょっ、何して」 「あん? 何だ、失くしたんじゃねえのか?」 「(ぎゃあ!) えっえっ、待って待って! いいから! やめてやめてやめて本当にやめて!」 教室の床から跡部景吾の膝まで、ほんの数センチ。ギリギリのところで何とか未遂で済んだものの、わたしはあろうことかあの跡部景吾をその場に跪かせようとさせてしまったのだ。事情はどうであれ、この事実だけでアウトすぎる。そして、それ以上にアウトなのは。 (えっ、何これ? 何これ? 一緒に探そうとしてくれたってこと? 跡部景吾なのに!? いや意味わかんない本当に意味わかんない、無理、耐えられない!) ……一生関わることもないと思っていた跡部景吾の意外すぎる一面を知ってしまったことにより、わたしの中でまた別の感情が湧き上がろうとしてしまっていたことだ。 隠したい、けれど、ボッと一気に火が着いたように真っ赤になってしまった頬の色は、どうしたって隠しきることができず。 「ーっ! ごめん、とにかくもう本当にいいんです! いいの!」 「何? おい、ちょっと待て」 「いいから! その、わたしもう帰るんで! さよならっ!」 もはや消しゴムの行方やそれについての真相なんてどうだっていい。そう、わたしはほとんど泣き崩れるように叫びながら、カバンだけを持って教室を飛び出した。そのまま振り返ることもなく、教室から校門へ。そして、校門から駅前のセブンイレブンへと必死に猛ダッシュする。 きっとわたしは、そこに着いたら失くしたものとまったく同じ税別100円の消しゴムを買って、家に着いたら着いたでまた同じように、新品のカバーの四隅をいじらしくカットするのだろう。 ……跡部景吾は、また気づいてくれるだろうか。 「(ーっ!? って、何考えてるの! ダメッ! なしなし! 今のなし!)」 (2020/10/13) |