夏葬 「あー楽しかった! やっぱ最強だよな、公園のプール!」 「ね! あたし学校のプール嫌い。だって地獄のシャワーがあるもん」 「ぎゃはーっ! 出た、地獄のシャワー!」 「(、)」 ふわりと漂った塩素の匂いに、日に焼けた小さな肩。ついでに、"地獄のシャワー"という涙が出そうになるほど懐かしいフレーズ。おそらく、言葉どおり公園のプールで遊んで来た帰り道だろう。夕方の商店街を歩いている途中、無邪気に笑い合う子供たちと不意にすれ違った。 懐かしさから、ついつい昔の自分を重ねてしまう。同じように何度も通った公園のプール。夕方の、まさに今くらいの色をしていた空。そして、その帰り道でお決まりのように買い食いしたアイスの味。既に何度も同じ季節を繰り返し、すっかり成長してしまったはずなのに、子供の頃、特に、彼らと同じ年くらいだった夏は、なぜだか今でも特別なことだったかのように強く印象に残っている。 けれど、その数年後。つまり、今現在の夏はというとどうだろうか。 「(うう、それにしても重い……)」 右手に揺れるスーパーのビニール袋からは、おつかいで頼まれた醤油のボトルが情けなく顔を覗かせていた。 たった今すれ違った彼らのように、キラキラしていた夏は今いずこ。現在のわたしはこれといった予定も楽しみもなく、毎日ほぼ夕方まで寝ていて、せいぜいおつかいぐらいでしか外に出ない夏を過ごしていた。……ノスタルジーに浸ることさえ許されないような過去と現在のギャップに、色んな意味で切なくなる。 「(あ)」 少し先の方向に見つけた後ろ姿に、わたしは小さく声を零した。久々であるにもかかわらず、後ろ姿だけでそれがわかってしまう自分に驚く。けれど、間違いない。男の子にしては少し華奢な背中に、光に照らされると金色に見えるような柔らかい茶髪。あの後ろ姿は、確かにそうだ。 「(え……。ジロちゃんだよね? あれ)」 その後ろ姿に気づいた瞬間、必然的に歩く速度が遅くなっていたのが自分でわかった。同時に、幼かった頃の思い出が不意に蘇る。 「ジロちゃん」 「」 近所のクリーニング屋さんの息子。通っていた幼稚園や学校こそ違うものの、物心ついたころには既にその存在を知っていた上、小学校低学年くらいまでは毎日のように同じ時間を過ごしていたから、関係性としてはいわゆる幼馴染になるのだろう。ときにはお互いの家に行き来したりもしたし、またときには今すれ違った彼らのように、一緒に公園のプールに通ったりもした。 ちょうど偶然が重なったこともあり、不意に蘇ったそれが一気に色濃く鮮明になっていく。……思い返してみる限り、少なくとも浅くはない関係性だった。はずなのだけれど。 「(え、うそ。どうしよう)」 普通に声をかけるか、素知らぬ顔で通り過ぎてしまうか。現時点での選択肢は二つに一つだった。 一方的なものとは言え、久々の再会だ。気持ち的には話をしてみたい。けれど、今はもう、学校も違う。友達も違う。過ごしている時間も違う。現実はもう、何年も会話をしていない。それどころか、こんな風に自然と顔を合わすことさえなくなっていたからこそ、自ら声をかけてもいいのかどうかの迷いが生まれていた。 「元気ですか? ジロちゃ……あ、いや。慈郎君」 いつだったか、クリーニング屋さんの利用がてらジロちゃんのおばさんに聞いてみたことがある。現在のジロちゃんはほとんど毎日が部活で、顔を合わせていた頃と比べると考えられないほどに忙しいらしい。(朝は早くて夜は遅くて、帰ったら帰ったですぐに寝てしまうんだとか) ……今にして思えば何となく、それもあってのことだったと思う。年齢や性別以上に、わたしたちにとって環境という垣根はそれぐらい大きいものだった。 なまじ原因がわかっているからこそ、余計にもどかしい。不思議だ。幼馴染である以上、本来であればそんな迷いが生まれる方がどうかしていて、もっとずっと幼い頃はお互い何も考えず、近所に住んでいるという事実だけで自然とその友情は成り立っていたはずなのに。 ……そう、一人ぐちゃぐちゃと考えすぎて選択ができないままでいた、次の瞬間。 「(、)」 少し先を歩くジロちゃんの背中が、まるでわたしの存在に気づいたかのような絶妙なタイミングで止まった。(もちろん、いまだに後ろ姿である以上、単なる偶然にしかすぎないけれど)腕の動き的に制服の胸ポケットでも漁っているのだろうけれど、そこは特に問題ではない。 一つだけ言えるのは、声をかけるには今がまさに絶好のチャンスだったということだ。 「(え、待って待って。このタイミングで? どうしようどうしようどうしよう)」 ドキン、ドキンと、背中に背負われたラケットバッグが近くなるにつれ、緊張から鼓動が高鳴っていく。……どうしよう。勇気を出して声をかけてみたら、意外と笑って「久しぶり」なんて言ってくれるかもしれない。けれど、もしも。もしも自分の存在はおろか、確かに一緒に過ごしていたはずであるその時間を忘れられてしまっていたとしたら。 「(……)」 本音を言ってしまえばほとんど消去法での選択だったと思う。様々な葛藤を抱えながらも、勇気を出すこと以上にそちらの方が怖かったわたしは、何も言わずにその場を通り過ぎようとしていた。 なるべく素知らぬ顔で、一歩。そしてまた一歩。いざすれ違おうと、灰色の道路に映った二つの影が、ゆっくりと重なり合った瞬間。 「もしもし。あー……うん、今もう地元」 「、」 横目で盗み見た横顔に、何年ぶりかの懐かしい声。けれど、それらに気づいたときはもう、完全にすれ違ったあとのことだった。おそらく、ジロちゃんはすれ違ったわたしのことなんて見ていない。それどころか、こんなにも近くにいるのにもかかわらず気づかれてさえいないと思う。 「(……ああ、そうだよね。やっぱり) 一瞬は重なり合った二つの影。そして、友達か恋人か、顔を合わせないうちにできていたであろう知らない誰かに対してのジロちゃんの声が、徐々に遠ざかっていく。同時に、当たり前のことだけれど、ジロちゃんとわたしの間には既に別々の時間が流れてしまっていたことを、改めてひどく痛感した。 ……多分、今はこの影のように、重なり合うことはできても交り合うことはできないのだろう。それを考えると、声をかけなかったのは正解だったと思う。 そう、自分の中で納得せざるを得なかったわたしは、そのまま振り返ることもなく足を進めた。 まるで幕を下ろしていくかのように、オレンジ色の夕日がゆっくりと沈んでいく。心なしか、電柱に止まっていたカラスの鳴き声がどこか物悲しく聞こえた。 ……きっと、さっきすれ違ったプール帰りの彼らも、あと何年かしたら当たり前のように隣にいたはずの存在に対してこんな気持ちを抱くのかもしれない。幼さゆえに、そして、無邪気さゆえに疑いもしなかった、その関係性の終わりを知る日。ただ、唯一の救いとして、それは自分で変えることができる。勇気を出すことができなかったわたしにとってのそれはあと何年先になるかわからない。けれど、今は。確かに過ごしたわたしたちの時間が完全に消えてしまう前に、思い出のままで。 (またいつかの日まで、バイバイ) (2016/08/01) |