うしろのひたひたさん 氷帝学園の制服は、世間一般からするとなかなかに評価の高いものだった。 特に女子のそれはすごい。柔らかいクリーム色のブレザーはもちろん、チェックのプリーツスカートに至っては別の学校に行った友達からいまだに羨ましがられたりもする。それ自体は悪い気もしないし、何よりも、可愛い制服を着れることは素直に嬉しい。 ただ、残念なことにその評価はいわゆる"そっち系の人"たちからも高いらしく、人によっては寄せつけなくていい人たちまで寄せつけてしまうようだ。 「あー、あと警察から不審者情報来てるからなー。女子はなるべく集団で帰れー。一人で帰るなよー」 帰り際の喧騒の中、教卓の奥からついでのようにやる気なく語尾を伸ばされた口調。物騒なことに、担任の口から告げられるそれは連日続いてでのことだった。 具体的な情報は全て伏せられていたものの、あたしは知っている。現れたのは不審者というよりも、単純に下校途中に背後から抱きついてくるタイプの痴漢らしい。(被害に遭った子たちの一部も知っているけれど、揃いも揃って可愛くて大人しそうな子たちばかりだった。きちんとそういうタイプを選んでいるあたり、本当にふてぶてしいったらない) 自分が被害に遭ったわけではない上、そもそもその手のタイプには掠りもしないけれど、連日のそれとなると物騒なことには変わりない。空が明るいうちに早いところ帰ってしまおうと、机の上の鞄を手に取ったそのとき。 「おい、」 「?」 足早に帰宅しようとするあたしを呼び止めたのは、隣の席の日吉だった。 一応隣の席ではあるものの、正直なところあまり得意ではない。むしろ苦手な相手だ。 いつも偉そうで、無駄に上から目線で、おまけに口も悪い。そのせいで、普通に話しているだけでも度々喧嘩になる。 「何? 日吉」 きょとんとしながらそう返すあたしに対し、日吉はわかりやすいほどに刺々しい視線を向けていた。まるで仕事のできない部下に対する嫌味な上司のように、いかにも何か言いたそうなくせにすぐには言葉にせず、何なら自分で察しろとでも言わんばかりな態度だ。 「しれっと帰ろうとしているみたいだが……お前、本気で気づいてないのか?」 「? 待って待って、何が? 何のこと?」 「はあ。……黒板見てみろ」 質問を投げかけておきながら主語の足りない日吉の言葉に眉を顰めるものの、とりあえずは言われるがまま黒板に視線を移す。一日の授業を終えた、何の変哲もない黒板。真ん中から左側は既に何も書かれていない。右側に書かれているのだって日付と曜日、そして、本日の日直の名前ぐらいだ。本日の日直。日吉。そして、。 ん? ? 「! げ、嘘!? あたし今日日直だったの!?」 「信じられん……呆れたバカだな」 「何それ! え、てゆーか気づいてたんでしょ? なら早く言ってくれればいいじゃん!」 「はあ? そもそも隣の俺が一日中号令をかけてる時点で気づけ、バカ」 「!?」 完全に本気でしかない声のトーンに、面と向かって容赦なく連呼される"バカ"という単語。……普通に腹立たしいものの、何しろ事実なので否定のしようがない。何も言い返せずにいるあたしに対し、日吉は心底呆れたような表情を浮かべていた。 「まあいいだろう……過ぎたことは仕方がない。だがな、。俺は今日一日ずっと号令もかけた。黒板も消した。要するに、日誌以外の仕事は全部したんだよ。自分も日直だってことを忘れていやがった誰かさんの代わりにな」 「……」 「言いたいことはわかるよな?」 呆れていたような表情が、意地の悪そうな笑みへと変わる。そして、当てつけのように手に持っていたのは、本来であれば既に書き終えているはずの学級日誌だった。 ……ここまでわざと黙っていた日吉のことだ。おそらく今日のそれには一切手をつけておらず、あえて真っ白のままにさせているに違いない。 「いや、あたしはもう帰」 「まさか日誌まで俺にやらせて自分は帰るなんて言わないよな?」 「! そ、そういうわけじゃないけど……」 「……」 「……うう、もう! ……悪かったってば、わかったよ」 「フン、わかればいいんだよ。それじゃあ、俺は部活に行くからな」 ……偉そうで、上から目線で、口と、ついでに意地と性格も悪い日吉のそれは紛れもない事実だ。けれど、あたしが日直だったということ、そして(すっかり忘れてしまっていた)それらの仕事を全て日吉にやらせてしまっていたということも、また事実であって。 ……どう考えても立場の悪いあたしは黙って日誌を受け取るしかなかった。 (……やっぱり、日吉は苦手だ。いや、むしろ嫌いだ) 「……六限目。現国、細雪……っと」 橙色から朱色へ。そして、朱色から黒みを帯びた赤へ。カーテン越しの夕日が徐々に変化していったことにも気づかずに、真面目に取り組むこと小一時間。 結局、カリカリと走らせ続けたシャープペンを置く頃には時刻は十八時を過ぎ、ちょうど運動部が終わる時間帯となっていた。 「何だお前、まだ残ってたのか」 「、」 開きっぱなしの廊下側の前扉。聞き慣れた嫌味な声の方向に視線を向けると、既に制服に着替え終えていた日吉の姿があった。……見張りのつもりなのだろうか。わざわざ戻ってくるあたり、やっぱり相当意地と性格が悪い。 「……もう終わったから、帰るもん」 「フン、書けたのかよ。日誌は」 「書けた! じゃあね! 見張りに来たのか知らないけど、わざわざご苦労さま!」 嫌味には嫌味を吐き捨てつつ、つかつかと近づいてくる日吉を押し退けるように教室を出ようとした、次の瞬間。 ……日直と同様、冬場の日の短さもすっかり忘れてしまっていたあたしは、廊下側の窓から見えた空の色にひどく驚愕していた。 「(!? え、うそ……もうこんなに暗いの!?)」 本来であればまだ夕方と言ってもいい時間にもかかわらず、ほとんど夜と見間違うような色の空には、早すぎる月までもが浮かんでいた。 (「警察から不審者情報来てるからなー」) (「不審者情報来てるからなー」) (「からなー」) 小一時間前の担任の言葉が、頭の中でゆっくりとリフレインする。自意識過剰と思われようが、怖いものは怖い。 ……決して、決して深い意味はなかったけれど。こっそりと一度だけ振り返ってみると、振り返った先の日吉は明らかに何かを言いたそうにしながらニヤニヤと笑っていた。 「どうした? 帰らないのか?」 「ーっ!?」 おそらく、心情を見抜かれたに違いない。もちろん、それ自体も非常に癪に障るけれど。……どこからどう見てもバカにしているようなその表情に、ついカッとなる。 「はあ? 帰るし! 別に不審者とか全然怖くないし、背後からいきなり抱きつかれたらどうしようとか思ってないし!」 「ブッ!? っ……安心しろ、それだけは間違ってもない」 「!?」 まるで何かを必死で我慢しているように震えている肩。片手で押さえられた口元。そして、この失礼極まりない発言。そう、信じられないことに、このときの日吉は怖がるあたしに対して笑いを堪えていたのだ。(むしろ、堪えきれずに普通に噴き出していた) ……右手に抱えた日誌が、勢いよく空を切る。気がつくと、あたしは日誌の角で日吉の頭を思いっきり引っ叩いていた。 「……痛いな、何するんだよ(ちくしょう。この女、角で……!)」 「うるさいうるさいっ! 失礼なこと言うからでしょ!」 心底恨みがましそうに睨みつけられるものの、ちっとも罪悪感なんてない。むしろ、罪悪感を感じて欲しいのはこっちの方だ。何。間違ってもないって。確かにあたしは(自慢じゃないけれど)その手の被害には遭ったことがない。別に遭いたいわけではないし、そもそもそんな目には遭わない方がいいに越したことはない。けれど。 ……それでも、こんなに真っ暗な上、話題が話題だ。ちょっとぐらいは心配してくれたっていいのに。 「ヘッ、本当のことだろ。お前みたいな凶暴な女はどんな物好きでも襲わない」 「!」 ……もはや怒りを通り越して悲しくさえなってきた。 心配するどころか笑ってさえいる日吉の胸元に、書き終えた日誌をぐいと押しつける。 「帰る! それ出しといてよ!」 「は? おい、俺に押し付けるなよ」 「知らない! もしあたしが襲われたら日吉のせいなんだからね!」 そう、ひどく理不尽な捨て台詞を叫んだあと、あたしは今度こそ振り返ることなく教室を後にした。 ……これがのちに、自分にとって死ぬほど後悔することになるとも知らずに。 (うわ、何これ……。思った以上に真っ暗じゃん……) 学校の周りはほとんどが閑静な住宅街で、唯一の光は申し訳程度に設置された街灯のみだった。どことなく物悲しい風が吹く中、コートのポケットから取り出した携帯電話に視線を移す。一応はまだ十八時台。それなのに、やっぱり暗い。そして、人がいない。 ……通い慣れているはずの道なのに、暗闇や無人というだけでどうしてこんなにも不安になるのだろう。おまけに。 「……」 連日の不審者情報。制服の(一応)女子。青白くぼんやりと光る街灯。ブロック塀にぬらりと移りこむ自分の影。さわさわと揺れる木々の音。 ……どうにか気を紛らわそうとしてみても、状況が状況なせいか、こういうときに限って妙なことばかり気にしてしまう。 (……とにかく歩こう。暗かろうが人がいなかろうが、ここさえ抜けてしまえば大丈夫だ。多分) そう、自分自身に必死に言い聞かせるようにしながら、いつもより少しだけ速いペースでローファーの踵を鳴らし始めたそのとき。 「、」 後ろから聞こえてきたのは、もう一つの足音だった。明らかに自分のもの以外のそれに、ドキ、と小さく鼓動が反応する。……住宅街。そして、十九時前。場所にしてみても時間帯にしてみても、(さっきまではたまたま誰もいなかっただけで)あたし以外の人がいても決して不自然ではない。ただ、問題はその足音のペースだ。抜かさず、けれど、決して追いつかず。一定のペースを保ちながらひたひたと近づいてくるその気配と足音に、あたしは一つの疑問を感じていた。 ……そもそも、ほとんど小走りに近いあたしと同じペースで足音が聞こえてくるなんて、普通に考えてみればおかしな話ではないだろうか。よっぽど歩くのが速い人だって、小走りの人間と同じペースなわけがない。……ひょっとして、ひょっとしたら、今後ろにいる相手は。 (……待って待って、これ、追いかけて来てない……よね?) 自分には関係ないと思いたかったものの、このご時世何が起こるかわかったものではない。というよりも、既に起こっているのだ。それも連日、更には、この近辺で。 ……サーッと、全身の血が引くような感覚に呑まれていく。得体の知れない気配、そして、足音だけでもここまで不安で恐ろしいのだ。実際に被害に遭ってしまった子たちはきっと、相当怖かったに違いない。 勇気を出して振り返ってみれば一瞬で解決することであったにもかかわらず、どうしても振り返ることはできなかった。むしろ、振り返ったら終わりな気がする。例えば、今後ろにいるその相手がずっと近くまで来ていたとしたら。そして、単なる痴漢や露出狂ならまだしも、もっとずっと性質の悪い相手だったとしたら。 コツコツコツコツ。(ひた、ひた) コツコツコツコツ。(ひた、ひた) 「……」 ……いまだに止むことのない気配と足音に、不安と恐怖からくるあたしの妄想は最悪の展開にまで発展していた。……ここはもう、走って逃げるしかない。そう、意を決してそれらを振り切ろうとした、次の瞬間。 「おい」 「!? ひっ!?」 ……きっと、状況が違ったら。もしくは(状況は同じにしても)もう少しだけ冷静であれば、その手の類の相手ではないということがすぐに理解できたと思う。けれど、言い訳が許されるのであれば、タイミングがタイミングであった上、あまりにも突然すぎたから。 このときばかりは本当に必死で、それこそ恥もプライドもかなぐり捨てていた。 「ーっ!? ぎゃあーっ! だだだ、誰か助けて! レイプされるーっ!」 「レッ……!? バカ、人聞きの悪いこと言うな! 俺だよ、俺!」 「!」 ひどく聞き慣れた声で聞こえたそれは、まるでどこぞの詐欺師のような台詞だった。 涙目になりながら、おそるおそる振り返る。相変わらず真っ暗で無人の住宅街だ。景色が変わらない以上、不安も恐怖も変わることはない。けれど、そんなあたしのすぐ後ろにいたのは痴漢でも露出狂でも、レイプ魔でも殺人鬼でもなく。 ……見慣れたネクタイを少しだけ覗かせながらも、きちんと前が閉められた紺色のコートを着たその相手だった。 「うう……びよじ……」 「はあ……」 溜息か、単なる呼吸でのそれか。どちらにしろ、白い息を吐き出しながら呆れ顔でこちらを見つめる日吉の表情は、やっぱりここでも変わらない。教室で見たそれとまったく同じ、意地と性格の悪さを物語っているようなその表情は、この上なく憎たらしいものだった。 腰の力がへなへなと抜けていく。本来であれば、認めたくない。けれど、認めざるを得ない。事実としてあたしはそんな憎たらしい日吉の表情に、思わず泣けてくるほどの安心感を覚えてしまっていたのだから。 「……何半べそになってるんだよ」 「び、びっくりさせないでよ! あたし本気で襲われるかと思ったんだから!」 「だから何度も言ってるだろ、お前は大丈夫だって……この俺が送ってやるんだから」 「え、てゆーかそもそも何で日吉がいるの? だって出たのあたしより遅かったのに、わざわざ走って……! やだちょっと、さてはあんたがちか「バカかお前は!?」」 「!? (またバカって言った! もう、バカって言われるの今日で何度目!?)」 ひとしきり騒動の落ち着いた冬の空、あたしと、ちか……ではなく、日吉は何となくの流れから自然と横に並んで歩いていた。二人分に増えたローファーの音が、相変わらず真っ暗で無人の住宅街に響く。 「で? 何でわざわざ走って来たの?」 「……別にいいだろ、用事があったから急いでただけだ」 「はあ? こんな時間に? 変なの」 「……最近、ひたひたさんが出るって噂があるからな」 「ひたひたさん? 何それ、おばけとかそっち系?」 「まあな。そんなとこだよ」 「何それ、変な本の読みすぎじゃない? ってゆーか日吉の足音の方がよっぽど怖かったんだけど」 「……うるさいな」 不安や恐怖が去ったあとは、一転していつもどおりのそれだった。小さく鳴らされる日吉の舌打ち。そして、わかってはいてもやめられないあたしの憎まれ口。 結局、"何となくの流れ"の延長で日吉と一緒に帰ったこの日は痴漢も露出狂も、レイプ魔も殺人鬼も現れることがなかった。(いやまあ困るんだけどね。現れても)……ただし、その代わり。 「なあ、日直の件もそうだが……お前のそれ、気づいてないふりじゃないよな?」 「? 何が?」 「はあ……何でもない」 遠くから後ろへ。後ろから隣へ。あたしの隣に現れたそれ以上に恐ろしい物好きな男は、着実にその距離を縮めていた。 (おかげでもっと物騒になりそうだ) (2008/10/30) |