トゲトゲの木 「いい加減降りて来てくれませんか? いつまでも拗ねてないで」 「いや! 絶対降りない!」 「……頑固な人ですね、貴方も」 「うるさいな! もう、放っといてよ! あっち行って、きのこ!」 冬場にしては肌寒さもなく、気持ちのいい気候。だが、頭上から降り注がれていたのは緩やかな日差しでも緑の隙間からの木漏れ日でもなく、ひどくレベルの低い罵詈雑言の嵐だった。キャンキャン、ギャーギャー。……二年間の付き合いでそれなりに耐性はついていたとは言え、建前上で説得に来ただけの身としてはどうも割に合わない気がする。 「……大体、何がどうなってそんなところにいるんですか」 はあ、と、溜息混じりで視線を上へ向ける。信じられないことに、先輩は俺の正面ではなく、中庭に植えられた木の上にいた。高さ自体は知れているものの、普通、逃げ場所としてわざわざ木の上なんて選ぶものだろうか。しかも(仮にも女のくせに)制服のまま登るなんて。……チラチラと、枝にしてはやけに白いそれが視界に入るたび目のやり場に困るこっちの身にもなってもらいたいものだ。 「どこだっていいでしょ」 ふいと憎たらしくそっぽを向きながら、先輩は俺に向かって「しっし」と言わんばかりにぷらぷらと脚を揺らしていた。当然、その動きに合わせるように短いスカートの裾も揺れる。ちくしょう、こうなったらあえてしれっと言ってやろうか。 「パンツ見えますよ?」 「! 見るな! エロきのこ!」 「!? エッ……(くそ、言わなきゃよかった)」 せめてもの腹いせのつもりだったが、そのレベルは余計に下がっていた。ダメだ、口ではこの人に勝てない。何だよ、エロきのこって。 ……下らないそれに乗ってしまったら負けだ。何とも言い難い悔しさを堪えると同時に、どうしたらいいものかと考える。このままどちらかが折れるまでと言っても、幼稚なこの人のことだ。つまらない意地を張り続け、その結果、必要以上の長丁場になることが目に見えていてしまっている。それだけは何とかして避けたい。 「……仕方がないのであと五分だけ待ってあげます。ただ、それでも降りて来なかったら引き摺り降ろして強制的に連れていきますから」 色々と癪ではあるが、苦肉の策として選んだのは一定の猶予を与えることだった。言い方を変えれば一種の脅迫のようで気も引けたが、背に腹は代えられない。むしろ、俺の立場からしてみればここまで付き合っただけでもありがたいと思って欲しいくらいだ。 「何それ。連れてくってどこに」 「決まってるでしょう、跡部部長のところですよ」 「!? はあ!? 絶対降りない! 一生ここで暮らす!」 「バカなこと言ってないで下さい」 「だって!」 「……」 頭上から響く先輩のそれは、分類するのであれば確かに怒鳴り声だった。だが、その声は微かに震えていたように感じた。あるのかないのかわからない羞恥心がそうさせたわけではない。おそらくは、俺が跡部部長の名前を出したからだろう。 そう、事の発端は跡部部長と先輩の喧嘩だった。 詳しい原因は知らないし、そもそも聞いてすらいない。ただ、先輩は男子テニス部のマネージャーだ。部長とマネージャー、部内でも重要な役目である二人が醸し出すギスギスとした雰囲気は、当然周りにも伝わってしまう。ゆえに、跡部部長や先輩と近しい三年生の先輩方をはじめ、そういった雰囲気に敏感な部員からしてみたら非常にやりにくく感じたらしい。もっとも、俺としてはそれだって、喧嘩の理由と同じくらいどうだっていいことだったのだが。 ……下らない。大体、しょうもない色恋沙汰の喧嘩なんて当人同士の問題なんだ。いちいち他人が口を挟むことじゃない。それなのに。 「んー……なかなか戻って来ないね、」 「ったく、しょーもねえな」 「日吉、行ってき」 「はあ? ちょっと待って下さいよ、何で俺が」 「頼むぜ! 次期部長!」 「……」 ……まったく、お節介な先輩たちだ。だが、(渋々であるとは言え)従ってしまっている俺も結果的にはそうなるのだろうか。 怒鳴り声を上げて以降、先輩はだんまりとしながら俯くだけだった。もちろん、相変わらず降りてくる気配はさらさらない。 「……そろそろ五分経ちますけど」 「だから何? 降りないって言ってるでしょ」 「はあ……意地張るのもいい加減にして下さい、俺だって気が長い方じゃないんです」 「うるさいうるさいっ! こっち来たら殺す!」 「あ」 「?」 元々視力がいいわけでもなければ、その手の類のものに詳しいわけでもない。だが、目を凝らして確認したその正体が虫であるということは一目でわかってしまった。樹皮の表面。黒光りしたフォルム。……正直、男の俺ですら気持ちのいいものではなかった以上、よっぽどの物好きでもない限り、女子としては尚更そう思うだろう。おまけに、うぞうぞと這い回るそいつがいる位置は、ちょうど先輩の背後にあたるところだ。 「……何?」 「(面倒なことになりそうだし、黙っていた方が無難だ)何でもありません」 「嘘、今『あ』って言ったじゃん!」 「(!) ちょっ! 今振り向いたら」 黙っていた方がいい。判断自体は間違っていなかったものの、咄嗟に声を零してしまったことは完全に俺のミスだった。 しまった。そう、慌てて制止に入るも、俺のそれを聞き逃さなかった先輩は既に振り返ってしまっていた。 「!」 コンマ単位の間を空けた直後、耳を劈いたのは金属を叩きつけたように甲高い先輩の悲鳴だった。 そして、その正体に気づいてしまった先輩はひとしきり叫んだあと、必死にそれを振り払う……というよりは、ほとんど暴れるに近い状態で手足をバタつかせていた。ゆさゆさと激しく揺れる枝に、ぎょっと目を見開く。もちろん、そうなる気持ちはわかるし(そもそもこんなところにいるこの人が悪いとは言え)半分は俺のミスである以上、強くは責められない。ただ、いまだに木の上にいるという物理的、かつ、ある意味精神的にも不安定な状態でのそれは非常に危険な行為だった。 「えっえっ、待って待って! 無理、本当に無理なんだけど!」 「ちょっ、落ち着いて……」 頭上から降ってきた細かい葉っぱや木屑がピシピシと俺の顔に当たる。くそ、痛い。だが、この際そんなことは気にしていられない。気持ちだけでもどうにか落ち着かせようとさせていたこのときの俺は、おそらく先輩以上に必死だったと思う。 「落ち着いて下さいって! 落ちますよ、本当に!」 「だって! 虫とか本当に無理なんだもん!」 「だから、そういちいち暴れたら……って、危ないっ!」 「ぎゃっ!?」 意識せずとも荒げてしまった俺の声と、再び上がったの短い悲鳴。それらが重なり合った瞬間、ぐらりとバランスを崩した先輩は忽然と視界から姿を消していた。 「っ!」 ……正直、あまりにも一瞬の出来事だったせいで自分でもよく覚えていない。ただ、反射的に両手を広げていたのだろう。風圧と重力。そして、落下した先輩。諸々のそれを全身で受け止めた結果、俺はその場に叩きつけられるように尻餅をつかされていた。……地面からの振動と共にじわじわと伝わる、鈍痛レベルではないその痛みに思わず表情を歪める。だが、自分でそうした以上問題はそこじゃない。 間一髪のところで受け止められたのも、特段目立った怪我がないことも、すべて結果論だ。散々周りに心配をかけて、勝手に危険な目に遭って。一歩間違えたら大変なことになるところだったということをもう少し理解すべきだと思う。この人の場合は、特に。 「バッ……! 怪我でもしたらどうするんですか!」 いまだ凭れ掛かるようにしながら俺の肩に顔を沈めている先輩に対して少しだけ語気を強める。(もっとも、これでも大分抑えていた方だ)だが、右側の首筋から聞こえてきたのは反省の言葉でも、それこそいつもの反発の言葉でもなく、まるで弱った猫のように震えまじりの唸り声だった。 「うう……」 「……」 顔が見えない以上、はたしてそれが泣いていたのかどうかは定かではない。ただ、色々と止むを得ないこの状態では、説教どころかそもそもの体を突き放すこともできず。 (……本当に、とことん呆れた人だ) もはや溜息さえも出ない中、周りに散らばった葉っぱがくしゃりと虚しい音を立てる。 結局、俺にできたのは先輩が落ち着くまでのしばらくの間、慰めの代わりに黙って肩を貸し続けることだけだった。 「……怪我はないんですね。そろそろ行きますよ」 時間にして10分にも満たなかったと思うが、そろそろ充分だろう。必要最低限の言葉だけを伝えると、力なく項垂れていた先輩はゆっくりとその顔を上げ、ようやく俺の首筋から離れていった。 「(、)」 ふわりと揺れた前髪の隙間からは、少しだけ赤くなった目が覗いていた。視線こそ合わなかったものの、やはり泣いていたらしい。気まずいだろうと思って一応は気づかないふりをしてやったが、もはや先輩としては隠すつもりもなかったのだろうか。 「……日吉、呆れてるでしょ?」 「(はあ)……ええ」 「ガキだと思ってるでしょ?」 「ええ」 「もう本当ムカつく、あんた!」 「……」 ぐすと一度だけ小さく鼻を啜ったあと、先輩はここにきてもなおその幼稚さを剥き出しにしながら俺に対しての不満をぶつけていた。どこからどう見ても身勝手な八つ当たりでしかないそれは、やっぱり割に合わない。そもそもそれをぶつけるべき相手だって、事の発端となった相手だって、涙の理由である相手だって、初めからずっと一貫して変わらないくせに。 わかりきっていたことだとは言え、改めてそれが自分ではないこと。同時に、散々「建前上」だなんて言い聞かせていたのは俺自身であったということを思い知らされる。 (……まどろっこしいんだよ、さっきからずっと) 「……けど」 「?」 「先輩は、それでも好きなんですよね? 跡部部長のことが」 「、」 一瞬の間を置いたあと、ザアッと吹いた生温い風はまるでその関係性のように、決して埋まることのない俺と先輩の間をすり抜けていった。 微かな息苦しさと共に、ちくりとした棘のような痛みが胸に走る。一撃で刺したとどめの一言はある意味ではバカみたいな自爆と紙一重で、自分で言っておきながら少しだけ後悔した。本来であれば呑み込んだままでいるべきだったのかもしれない。けれど。 長くもなければ短くもない沈黙が、風と共に止む。このとき、先輩は初めて俺に対して申し訳なさそうな態度を見せていた。 「……ごめん。……ちゃんと戻るから」 「……ええ」 一体何に対しての「ごめん」だったのか、はっきりと名言されたわけではない。だが、その答えは風の中で見た先輩のぎこちない表情が充分すぎるぐらいに物語っていた。 だからこそ、どうしたって納得せざるを得ない。ほとんど間を入れずに短い返事をしたあと、不自然にならないようさりげなく背中を向けた。 「俺はあとから戻ります。どうぞお先に」 「……」 去り際にもう一度だけ鼻を啜るような音が聞こえた気がしなくもなかったが、意地でも振り返ることをしなかった以上、真実なんて知るよしもない。 段々と遠ざかっていく先輩の足音を背中だけで感じながら、そのまま視線を目の前の木へと移した。さわさわと揺れる薄緑の景色をわざとぼやかせていくように、一度だけ瞬きをする。 再び瞼を開きようやく振り返ることができた頃、先輩は今度こそ完全に俺の目の前から消えていた。 (2005/12/01) |