蜂蜜色の夜

 特別な日でも何でもない一日だったけれど、この日はいつもより少しだけ贅沢なそれを使っていた。何となく覗いたお店で見つけた蜂蜜の入浴剤。花と蜜蜂でデザインされたパッケージが可愛くて、欲しかったと言うよりはこっちもまた何となく買ったものだけれど、ローヤルゼリーとかコラーゲンとか、よく聞く類の美容に良さそうな成分が色々と入っているらしい。ほんのりととろみがかったお湯からは、その名のとおり微かに甘い蜂蜜の香りがふわふわと漂っていた。

『起きてる』
「、」

 単なるこじつけかもしれないけれど、まるでその香りに誘われるように。絶妙なタイミングで受信したのは、たった四文字の短いメッセージだった。
 入浴中であるにもかかわらずそれがわかるのは、あたし自身が普通に携帯電話を持ち込んでいるからだ。単純に時計代わりだったり、(現在進行中である半身浴の)暇潰しだったり。理由は様々だけれど、一番はこんな風に、恋人から受信したメッセージにすぐに気づくことができるから。人によっては驚かれてしまうからあまり大っぴらにはしていないけれど、だからと言って今のところはやめるつもりもない。依存症? いや、そんなことはないはず。多分。

『起きてる』
『今お風呂入ってるからちょっと待ってて』


 ちゃぷちゃぷと、小さく波打つ湯船に浸かったまま返信を送る。文明の利器はすごい。時間や場所が関係ないことはもちろん、こんな産まれたままの状態でも親指一つで離れた相手と繋がることができるのだから。もっとも、再び受信したメッセージは、そんな文明の利器を使ってまでやりとりをするにはあまりにもふざけた内容だったけれど。

『マジかよ写メ撮って送って』
『アップと全身』
「……」

 ……返信の早さから伝わってくる勢いもそうだけれど、ご丁寧に添えられた謎のリクエスト(?)については、もはや怒りを通り越して呆れるしかなかった。
 はあと、何とも言えない気持ちから吐き出した溜息が、浴槽の湯気と混じってゆらゆらと消えていく。とりあえず、そのふざけたメッセージに関しては当然のように無視(と言うより、放置)することにして。残り十五分。相変わらず漂う蜂蜜の香りの中、あたしは半身浴のラストスパートに勤しむことにしていた。


 入浴を終え、着替えと一通りの洗面事情を済ませたあと。再び手に取った携帯には、一件の不在着信が入っていた。ほんの数分前のそれからは、多分、いや、確実にまだ起きていることが窺える。どのみちそのつもりだったしと、自室のベッドの上から遠慮なく折り返すと、ちょうどいじっていたタイミングだったのか、その不在着信の相手、つまり、恋人であるブン太はほとんどワンコールもしないうちにあたしからの電話に出ていた。(人のことを言えた義理ではないけれど、ブン太も相当依存している気がする。何かいつも早い、色々と)

『おー、おつ』
「はいはい、お疲れ」
『出た? 風呂』
「うん、今出たよ」

 開口一番のそれは、メッセージと同様に短い言葉だった。正直、ふざけたメッセージに返信しないまま放置したことに関しては怒られるかとも思ったけれど、それも特になし。いつもはわりとうるさいくせに、珍しい。なんて、簡単にタオルドライした髪を撫でながら密かにそんなことを思っていると、怒らないどころかどことなく浮足立ったようなブン太の声が受話器越しに響いた。

『で? 撮った?』
「え」
『だから写メだよ、風呂の。今まで入ってたんだべ』
「! ーっ! もう、撮るわけないでしょ!」
『は? 何で?』
「(!?)いやそんな、何でって言われたって……」

 ……どうやら、理由はこれだったらしい。おそらく、放置している間勝手に期待(?)を膨らませていたのだろう。ブン太の性格からして納得しかできないけれど、普通に撮るどころか当然のようにそれを送ってもらえると思っている神経が改めてすごいと思う。そして、それと同時に。

『つーか何? ってことはまさかお前今ってもう服着てんの?』
「服? ……いや、普通に着てるけど。え、着るでしょ、着ない?」

 さもこちら側がおかしいとでも言わんばかりなブン太の発言に、逆に困惑する。思わず当たり前の質問をし返すと、受話器越しのブン太はひどく語気を強めながら、信じられないくらい馬鹿げた理屈をあたしに畳みかけてきていた。

『はあー? おっ前、本当意味わかんねーんだけど! 服着んの早すぎ、っつーかそもそも服とか着てんじゃねえよ。家の中だろ? 裸でいろ裸で』
「(ええ、本当にバカじゃないのこの人)もう、無茶言わないでよ……ってゆーかそこなんだ、怒るの」
『あ? 何が?』
「ううん、何でもない」

 服を着ただけで怒られるという謎の理不尽さはあったものの、不思議と腹は立たなかった。本当に下らないとは思う。けれど、恋人と言う名のフィルターがかかっているせいか、ブン太とのこういった何てことのない会話や時間が愛おしくもあったのだ。
 くすくすと笑いながら、再び髪を撫でる。いまだに乾ききらないそれをきちんと乾かしたいとは思う反面、ブン太とのこの電話ももうちょっとだけ続けたいなとも思う。キューティクルの保護を取るか、ブン太との会話を取るか。答えはもちろん。

『つーか』
「ん?」
『お前今どんな格好?』
「(げ、まだ続いてたんだこの話題。さっさと変えよう)別に普通だってば、上Tシャツだし」
『下は?』
「下? パンツだけ……あっ」
『お、マジ? よし、そっちでいいから写』
「ーっ!? だから! 撮らないし送らない!」
『は? 普通に送れよ意味わかんねー』
「もう、こっちがだよ本当に……」

 ……自分で選んだ選択とは言え、一瞬で負けてしまったキューティクルの保護を蹴ってまで続けた会話は、相変わらず下らないものだった。後悔と言うほどではないけれど、「意味わかんねー」と乱暴に連呼しながら、当然のように己の欲を優先させようとしているブン太に対して思わず頭を抱えた。(しかも、裸とかパンツとかいちいちエロいタイプの。別に何かが減ったわけではないから意味は違うのかもしれない。けれど、ブン太の発言の一字一句にいちいち動揺して、カッとなって。これだってある意味では搾取だ)
 色々と思うことはある。ありすぎる。ただ、それでもやっぱり腹は立たなかった。その証拠として。

「あ、そうだ。なあ、そういや明日だけど」
「うん」

 明日の予定。テストの範囲。担任の悪口。コンビニの新作スイーツ。くるくると回る星のように、次々と切り替わっていく他愛のない話題はまったく尽きることがなかった。


「、」

 すっかり時間を忘れかけていた頃、不意に視線を向けた時計の針は、既に日付を跨いでしまっていた。今日から明日へ、ではなく、既に明日が今日だ。(ややこしい)その早さに驚くと同時に、そう言えば平日の夜だったという現実を思い知る。本音としてはまだ眠りたいわけではない。けれど、そろそろ頃合いなのだろうか。気がつけば視界に入るつま先をぷらぷらと遊ばせる余裕もなくなっていき、頷き続けていた相槌も、自然とおろそかになっていくのがわかった。

『……なあ、聞いてる?』
「うん……聞いてる」
『嘘つけ、絶対半分寝てたろお前』
「……いや、寝てはいないけど」
『何? そろそろ寝る?』
「んー、そうしよっかな……」
『まあいいや。しゃーねえ、俺もそろそろ寝っかな……あ、そうだ』
「ん?」
『お前眠そうな声エロいな。ウケるわ』
「(何でそこでウケるのよ)……」
『んじゃ、おやすみ』
「……おやすみ。また明日ね」

 ひとときの遊戯を終えるように、通話を終了するボタンを押す。そのままどさりとベッドに倒れ込むと、小さな反動によってさっきの入浴剤の香りがふわりと漂った。相変わらず甘い、蜂蜜の香り。今もなお消えることのないそれは、ブン太との時間の余韻とよく似ている気がして、このままずっと眠りにつくまで、どちらにもずっと浸っていたいと思った。
 濡れていた髪はとうとう自然に乾きかけていたけれど、今夜ばかりは仕方ない。さよなら、あたしのキューティクル。そして、さよなら、今日という何てことのない一日。ふわふわと甘いそれらとそっと捲り上げたシーツに包まれながら、あたしはゆっくりとまどろみの中へ身を任せていった。



(2018/03/23)