ネオンサイン

(ない。ない。ない。ない。……ダメだ、何度見てもない)

 それに気づいたのは一コマ目の数学が始まってすぐのことだった。参考書、ルーズリーフ、ペンケース。携帯電話、財布、家の鍵。……学校の机とはまた違う、塾独特の細長い机の上に広げたトートバッグの中身のうち、クリアファイルだけが忽然と姿を消してしまっていた。
 思い当たる節はただ一つ。来る途中、やたらと背の高い男子にぶつかってしまったときだ。そう言えば、きちんと周りを見渡していなかった気がする。まさかあんなに大きなものをとは思いつつも、バッグごと落とした拍子に中身も飛び出してしまったと考えればありえない話ではない。財布や鍵などの貴重品でなかっただけまだマシだったとしても、万が一、本当にその場に落としてしまっていたのだとしたら、それはそれでまた別の問題が発生する。
 提出しなければならない課題のプリントは、まさにそのクリアファイルの中に挟んだままだったのだ。

「(ええ、絶対出掛ける前に入れたよね?)」

 課題云々以前に、中身のプリントには本名も丸出しで書かれているからまずい。わたわたと必死に探すものの、やっぱり、どこをどう探したところでそれだけがなかった。

「何ね、忘れたと?」
「!」

 視界の端にぬっと現れたのは、数学を担当するおじさん先生のお腹だった。丸々と太っていて、そのワイシャツは今にもはち切れてしまいそうだ。

「い、いやっ、ちょっと待って下さい、その……」

 色んな意味での圧に、ごにょごにょと口籠る。課題自体はきちんとやってきたこと。来る途中に人にぶつかったこと。そして、(多分)そのまま落としてきてしまったこと。……すべてが事実である以上、真っ当に説明することはできる。けれど。
 よくわからないまま同じ教室に押し込まれた十数人程度の生徒は、ほとんどがよく知らない他校の生徒たちだった。それでいて、週二回、数時間だけの関係性。別にあからさまに仲間外れにされているわけでもないし、そもそも積極的にコミュニケーションを取ろうとしていない自分にも問題があるということは重々承知している。ただ、新たに加わった塾という名の三つ目の世界は、わたしにとってはいまいちまだ馴染めない世界で。……説明するのが面倒と言うよりも、説明したところで信じてもらえない方が怖かったわたしは大人しく頭を下げることを選んでいた。

「うう……す、すみません……」
「しょんなかねえ、次んときでよか」
「はい……」

 直接的なお咎めはなかったとは言え、笑いはもちろん、ざわつきさえも起きないスンとした空気感はひどく居心地が悪かった。けれど、そんな馴染めない三つ目の世界でも、辛うじて一人だけ元からの知り合いがいた。

「珍しかね、
「(、)……はは」

 一列隣の机からこっそりと声をかけてきたのは、唯一同じ学校のクラスメートである青山君だった。あくまでも、共通点があるだけ。学校でも塾でも特に親しい間柄ではなかったけれど、さすがに気の毒に思われたのだろうか。
 ……だらしのないイメージが付いてしまったかもしれないと、少しだけ複雑な気持ちになる。ただ、わたしはその青山君にさえ何となく本当のことは言えないまま、情けない愛想笑いを返すことしかできなかった。


 課題を出しそびれて気まずい思いをした数学と、そのあとの英語。それぞれ一時間づつの授業が終わる頃には、すっかり夜と言っていい時間になっていた。

「はー、終わった終わった!」
「ねね、お腹空いたしどっか寄って行かん?」
「(えっ、今からどっか行くの? すごいなあ……)」

 殺風景なビルの階段の途中、前方を歩く他校の女の子たちの会話が耳に入ってきた。どうやら、彼女たちはこのままちょっとした寄り道をするらしい。きっと、友達同士ファーストフードか何かで遅めの夕飯を食べながら、他愛のない話でもするのだろう。もっとも、このまま一人真っ直ぐ家に帰るわたしには、まったくと言っていいほど関係のない話だけれど。(それも、徒歩で。お父さんもお母さんも薄情だ。いくら田舎とは言え三十分も夜道を歩くんだから、車で迎えに来てくれればいいのに……)
 はあ、と、誰に向けているわけでもない溜息をこっそりと吐き出す。色々なことがありすぎたせいか、いつもなら何とも思わないはずのその会話が、今日はやけにぐさぐさと突き刺さった。もちろん、きゃぴきゃぴとはしゃぐ彼女たちが悪いわけではない。けれども、あまりにも対照的すぎてこのままじゃ精神衛生上よくない。

「(……何だか疲れたし、早く帰ろ)」

 そこそこに混雑している階段の途中という逃げ場のない場所。せめてもの自己防衛というわけではないけれど、わたしはなるべく彼女たちの会話を耳に入れないようにしながら階段を降りた。

「見て、あの人」
「え、どの人どの人?」
「すごっ! 背ーめっちゃ高!」
「何? 誰かの彼氏?」
「うそ、ちょっとタイプかも」




 コンビニ。薬局。ファーストフード。ファミレス。居酒屋。牛丼屋。そして、パチンコ屋。辛うじて並ぶいくつかのお店の看板に、パパアと行き交う車のライト。繁華街だなんて言ってしまうには到底烏滸がましい田舎の駅前だけれど、殺風景な階段の先から見たその景色はまるで別世界のようだった。一気に眩しくなったことから、少しだけ目を細めようとした瞬間。

「!」

 ちょうどビルの目の前、大通り沿いの白いガードレールにて。知り合いでも何でもない、けれど、ひどく見覚えがある存在に気づいてしまった。身長のインパクトが強すぎたせいもあってか、見間違いようもなかった。間違いない。二度目にぶつかってしまった彼だ。
 おぼろげにしか見えなかった顔や表情が、夜の街の中で初めて明確になる。……よく見ると少し格好いい。って、違う違う。そうじゃなくて。

「(え。待って待って。何で、どうして)」

 ガードレールに寄りかかっているその姿を目にした途端、わたしの鼓動は彼の容姿に対してのそれとは別の意味で高鳴っていた。なぜなら、わたしを含めビルから出てくる人の群れに気がついたのか、まるで誰か特定の人物を探すかのように彼の首がきょろきょろと動き始めていたからだ。

「(! ひっ!?)」

 彼の首の動きを見て、サッと血の気が引いていく。……正直、自意識過剰かもしれない。けれど、万が一。いや、億が一の確率でも、ぶつかってしまった上、落とし物を拾ってもらっておいてお礼もせず、逃げるようにその場を走り去ってしまったわたしのことを探しているのだとしたら。
 ……まさか。いや、けれど。そう、頭の中で二つの言葉が交互に巡る。状況が把握できないまま、混乱と共に立ち竦んでしまっていたそのとき。

「あ」
「!」

 ほんの一瞬ではあったものの、うようよと泳がせていたわたしの視線は、ガードレールに寄りかかったままの彼とかちりと合ってしまっていた。視線が合った瞬間、同じように見開かれた目。そして、途端に止まった首の動き。それらの反応はすべて、彼がこの場所にいる理由として当て嵌まっていった。まさかとけれど。嫌と言うほど交互に巡っていた言葉は、残念ながら"けれど"の方だったらしい。要するに、わたしを探していたということで間違いなかったようだ。
 咄嗟に視線を逸らしたものの、わたしの鼓動はさっきよりもずっと、これ以上ないくらいにバクバクと早まっていた。夕方に比べて涼しくなったはずなのに、なぜだかじんわりとした冷や汗も止まらない。

「(嘘でしょ、何で何で。本当に何で)」
「よかった、おったと」
「ーっ!? (ええ、全然聞こえないけど何か言ってる、ってゆーかこっち来てる!?)」

 ほんの数時間前、逆光の中で見た光景が走馬灯のように蘇る。見た目はちょっと怖そうだったけれど、事実として親切な人だった。トートバッグを拾ってもらった恩がある以上、それは間違いない。ただ。
 ずんずんと、一目散にこちらに近づいて来ていている彼に対し、おそるおそる視線を向ける。……反省したばかりとは言え、正直に言ってしまえば今も逃げ出してしまい気持ちでいっぱいだった。彼がここにいた理由は、わたしを探すため。けれど、じゃあ探していた理由は?

(だってあれから何時間経った? 場所だって、普通だったらわかるはずない。そもそもほんの一瞬ぶつかってしまっただけの関係性(?)なのに)

 ぐるぐるぐるぐる。疑問が多すぎてますますの混乱に陥る。そして、わたしが一人そんなことを考えているうちに、彼との距離は手を伸ばせば簡単に触れられるところまで縮められてしまっていた。

「ん、落としもん」
「(ひっ!?) ……え」

 ずい、と、既視感を覚える仕草と共に差し出されていたそれは、わたしの私物であるクリアファイルだった。(ちなみに塾の入会時に貰ったグッズのうちの一つだ。真ん中には非常に微妙な塾オリジナルの謎キャラクターが大きくプリントされている。別に誰に見せるわけでもないし、すぐにベコベコになってしまうからと理由から使っていたものだけれど、いざ目の前に差し出されると何とも言えない気持ちになってしまう)
 ……予想もしていなかった物の出現に、再び目を大きく見開く。

「(……えっと、このファイルってわたしの……だよね? なぜかこの人が持ってるってことは多分、ううん、やっぱりあのとき落としちゃってたことは間違いなくて。届けに来てくれた? で合ってるのかな? ……ええ、でも)」

 とりあえず、こんなことになるならもっとちゃんとした可愛いデザインのものを使っていればよかった。なんて、そんなことを思っている場合ではない。謎キャラクターのイラストが緊張感を和らげるものの、だからと言って混乱が解決するわけではなかった。何で。どうして。そう、受け取るに受け取れないままでいると、目の前の彼はわたしの心情を察したかのように、差し出したままのそれをひょいとひっくり返していた。

「ファイルん裏に場所が書いてあったと。"――ゼミナール駅前校"って」
「、」

 短く簡潔な説明と共に、クリアファイルの裏面をトントンと指される。市内にもいくつかある(と言っても片手で数えられる程度だけれど)中、おそらく一番近いこの場所を推測したのだろう。
 ほんの一瞬ぶつかってしまっただけの彼がこの場所にいたこと。また、この場所がわかったこと。正直驚くことばかりだったけれど、一つ一つ晴れていった疑問に関しては、少なからず納得と安堵を覚えた。ただ、まだ最大のそれが残っている。

「……あ、あの」
「?」
「えっと……、その、それでわざわざ……?」

 推測はできても、実際にそれが正しい場所かどうかは定かではかったのに。仮に正しい場所だったとしても、二時間近くの空白があったのに。何より、時間を潰して待ってくれていたところで、うまいこと見つかるかもわからなかったのに。
 聞きたいことは山ほどあった。けれど、実際はこの一言を捻り出すのが精一杯だった。おずおずと、様子を窺うようにしながらその言葉を投げかける。すると、目の前の彼は一瞬だけきょんと目を見開いた。そして。

「あー……」

 少しの間を空けたあと、ガシガシとぶっきらぼうに頭を掻きむしりながら、どこか言葉を選ぶようにゆっくりと答えていた。

「いや、名前ば書いとったけん。さすがにそんままにもできんし……どうせ帰りに通る道やったと。ついでに」
「……(あれ? 何か思ってた感じと違う……)」

 正直、それまでの過程がわかりようがない以上、簡単にその言葉だけを鵜呑みにしてしまうのは甘かったかもしれない。けれど、彼のその言葉は決して嘘や取り繕ったようなものではなさそうで。(むしろ、一度逃げてしまうという無礼を働いてしまったせいか、怖がらせないため(?)気を遣ってくれているような言い方に聞こえた)
 ……俗に言うギャップというやつだろうか。何も知らない。ましてや大柄で、強面で、(極一部のせいで)滅亡まで願ったほど印象の悪い獅子楽の人なのに、意外すぎるその言動や行動に、わたしは何だか別の意味で面食らってしまっていた。

「驚かせたらすまんかったと。ばってん、そういうこつやけん。ん」
「! あ、ありがとうございます……」

 気持ち自体はまだ全然追いついていなかったものの、わたしは今度こそ丁寧にそれを受け取った。ひょんなことから落としてしまったクリアファイルが無事に手元に戻ってきて、勢いからとは言え今回は(一応)お礼も言えた。これで、元どおり。本来であれば、このまま何事もなかったかのように終わるはずだったのだけれど。

「じゃ、無事渡せてよかったと」
「! あっ」
「?」
「(まずい、呼び止めたみたいになっちゃった!)……えっと、その」

 ……多分、夕方の出来事は思っていた以上にわたしの中でしこりとして残っていたのだと思う。自分でも驚くくらいに自然に零れたその一言が何よりの証拠だった。
 必然的にそうなってしまったとは言え、自ら呼び止めてしまった以上あとには引き下がれない。言わなくちゃ。改めて、きちんと顔を見て。
 ……そう、ようやく目の前の彼と向き合う決心がついたわたしは、一度だけ大きく深呼吸をした。

「あ、あの」
「?」
「ーっ! その、ありがとうございます……。あ、あとすみませんでした……夕方、ぶつかっちゃったり逃げちゃったり……」

 空の色は、緋色から黒に近い藍色に変化していた。既にいくつもの星も浮かんでいて、一度目のそれをやり直すにはまた少し違った状況かも知れない。それでも、街中の雑踏や大通りを行き交い続ける車の音に掻き消されないようにしながら、目の前の彼に対して精一杯のお礼と謝罪を伝えた。

「……」
「(……!)」

 ドキドキ。ドキドキ。それを言い切った瞬間、わたしの心臓はまるで別の生き物のようになっていた。
 決して大声ではなかったし、うまく伝わったかどうか。何なら聞こえていたのかさえもわからないまま、目の前の彼の反応をおそるおそる窺う。

「……ハハッ」
「(! ……えっ、わ、笑われてる!? 何で!?)」
「いやあ、何かと思ったと」

 少しの間を空けて返ってきてたのは、一切の嫌味のない、くしゃくしゃに皺を寄せた笑顔だった。
 ……獅子楽の人に笑われてしまったのは、今日だけで二度目だ。けれど、不思議なことに同じ笑われてしまったにしても一度目のような不快感はまったくなかった。むしろ、それどころか。

「気にせんで」
「(あっ)」

 短い一言が、再び零れそうになった。けれど、わたしのそれが零れるよりも先に、目の前の彼はひらと片手を上げながら、何事もなかったかのようにこの場から去っていってしまった。
 ……行ってしまった。ただ、当然のことながら用が済んでしまった以上、わたしには彼を呼び止める理由なんてなかった。ほんの一瞬ぶつかってしまっただけから落とし物を届けてもらった関係性に変化したとは言え、それ以外で知っているのは獅子楽の人ということだけ。あとは、完全に何も知らないし、それこそ、本来だったら関わることもない相手だったはずだ。けれど。

「(……)」

 いつの間にか妙な喪失感のようなものを感じていたわたしに残されたのは、やたらと鮮明に色を放っていた駅前のネオンだけだった。赤。青。黄色。そして、それぞれの色が混じりあってできた紫と緑。
 次々と色を変えるミラーボウルのように光るそれらは、わたしの帰り道とは反対の方向に離れていく彼の背中を煌々と照らし続けていた。



(2021/03/07)