ムーンエスケープ 狭いベランダの窓を開けると、冷たい冬の空気が容赦なく全身を襲った。 窓一枚隔てた部屋の中には何も知らずに無防備な寝息を立てている彼女の姿がある。……そもそも家主である俺が外に出ること自体おかしな話だが、この際致し方ない。みしりと軋む床の音にさえ気を遣いながら、握りしめた携帯電話と共にその身を移していた。 寮の規則を破ることも(変に誤解をされて)周りから囃し立てられることもどうとも思わない以上、俺自身が困ることはない。だが、問題は彼女の方だ。 時間的にも立場的にも、いつ彼女の元に連絡が入るかもわからない。メッセージならまだしも電話だった場合、それも家族からだとしたら最悪だ。いっそのことそれで目覚めてくれればいいに越したことはないが、それもまた、いつになるのかもわからないことで。 「……さて、どうしたもんかねえ」 右手でくしゃりと頭を抱えながら、もう片方の手で携帯電話をいじる。誰でもよかったなんて言ってしまうと具合が悪いが、とりあえず。極一般論としての正解が知りたかったという意味も込め、たまたま履歴の一番手前にいた人物に電話を掛けた。 『もしもし』 「ああ、謙也。すまんね急に」 『おー、どないしたん? っちゅーか珍しいなあ、自分からかかってくんのん』 「いや、折り入って相談があるとよ」 『あん? 相談?』 「あー、その……自分しかおらん状況でこう、女子が寝ちょった場合どぎゃんしたらよかかねえ」 『っはあ!? 何やそれ、ちょ、待っ……ええ!?』 「(あ、こりゃ言い方が悪かったとや)ああ、変な意味やなかよ。んこつやけん、」 『ああ、何や。な、……って、!? はあ!? ちょお待ち、おまっ、それ余計びっくりやねんけど!? え、つーか何やねん、おまっ、え、いいいいつからそーゆー関係』 「いや、落ち着かんね謙也。誤解やけん、誤解」 履歴だけで選んでしまった相手から多少の予想はしていたとは言え、それを上回る反応の良さ(と、単純に声量)に耳元がヒリヒリと痛んだ。 変に誤解をされることに関してもどうとも思っていなかったが、この場合はまた話が別だ。少しだけ面倒に思いながらも、俺は興奮と混乱を押さえきれていない謙也を宥めるように状況を説明した。 『はあ……あんなあ、そんなん叩き起こしたったらええねん』 「いやあ、さすがに女子相手にそぎゃんこつできんし」 『ほんだら引き摺り出したり。寒さで一気に目ー覚めるやろ』 「ばってん、風邪でも引かれたら可哀相たい。それに制服のままやけん。やりにくか」 『カーッ!? 何やねんやりにくいって。ええやろ別に、やで? !』 「んー……」 『それに、俺ならまだしも千歳やろ? ちょっとくらい触れようがチラッとなろうが許されるとちゃうん? (あっあかん自分で言うて虚しなってきた)』 「んー……」 『ああもう、ともかくや! あんなんでも一応女子やし、時間的にもそろそろ限界やろ? せやからここは千歳が心鬼にせなあかんて』 「はあ。……やれやれ、やっぱ起きるまで待つしかなかかねえ」 『ってコラッ!? (あかんこいつ全然俺の話聞いとらん!) ちょお待ち! 起きるまで待つって、自分それ朝まで起きんかったら、つーかそもそも千歳ん家って寮』 ブチッ。ツーツー。 『(!? 切りよった!?)』 自分から持ち掛けておいて何だが、どうにも力技中心(?)な謙也からのそれはいまいち参考にならず、結局俺は自分の考えを優先させることにした。(謙也には悪いが面白かけん、こんまま放っとこ) 電話口で慌てているであろう謙也を想像しながら一人で笑っていると、再び冷たい冬の空気を感じた。一時は気が紛れていたが、やっぱり外は寒い。ぶるりと震えた肩をほんの少しだけ縮こませつつ、時計代わりの携帯電話に再び視線を向ける。ベランダに出たその瞬間から、時間にしてわずか五分程度。おそらく、たったこれだけの時間で部屋の中のそれが一転していることはまずありえない。だが、だからと言って彼女が自然に目覚めるという、連絡と同様にいつになるかもわからないそれをずっとこの場所で待っていられる自信もないわけで。 (……いやまあ、妙な気起こすつもりはなかばってん) 感情を整理するかのような白い溜息を一度だけ吐き出したあと、部屋に戻ることを決めた俺は出たとき以上に気を遣いながらそっとその窓を開けた。 「……」 カラカラと最低限に抑えたその音の先は案の定、何も変わっていなかった。彼女が立てている寝息はもちろん、こたつの中から上半身だけを放り出すように眠っているその姿もだ。……正直、我ながらよほど信用されているのだと思う。どこまでも無防備なその状態にある意味参りつつも、彼女の頭側にしゃがみ込んだ俺はそのまま小さく声をかけた。 「おーい、」 「んー……ふふふ」 「……」 辛うじて本人の口から出たものとは言え、彼女のそれはどう考えても返事ではない、単なる寝言だった。むにゃむにゃと動いた唇が再び寝息を立てる。よほどこたつの温もりが気持ちいいのか、それとも何か楽しい夢でも見ているのか。どちらにせよ、ほんのりと笑みを浮かべた彼女の寝顔はひどく幸せそうなものだった。 「はあ……やれやれ、しょんなかねえ」 部屋の中で再び溜息を吐き出す。起こさなければいけない義務感と、起こしてしまう罪悪感。様々な状況を踏まえた上でそれらが葛藤するものの、俺の中で勝ってしまったのはやっぱり後者の方だった。(謙也への相談と同様に意味のないことだったかもしれないが、途中で起こしてしまうのはあまりにも酷な気がした) ……決して義務を放棄したわけではない。起こすための声かけはした以上、最低限のそれは果たしたと言える。はずだ。……多分。 そう、どうにか自分自身を納得させようとしたあと、背を向けた壁際にずるりと凭れ掛かりながらほんの数時間前の出来事を思い返す。 「寒っ」 「寒かねえ。早くこたつん中入って暖まりたか」 「えっ、千歳の部屋こたつあるの?」 冬場の帰り道、何の気なしにしたこの発言が全ての発端だった。こたつというフレーズに純粋に反応した彼女を部屋に上げた。本当に、それだけの話だ。 寮暮らしという環境から(主にテニス部の仲間から)溜り場にされがちではあったものの、自分の部屋に女子を上げたのは初めてのことだった。部屋に上がりたいと言われたときこそ少しだけ驚いたものの、彼女の口ぶりはよくある子供同士の口約束のように、あまりにも無邪気で屈託のないものだった。きっと、彼女にとってはそのまま、言葉どおりの意味だったのだろう。それに対して変にこっちが邪推をするのは、非常に無粋なことで。 だから、俺も余計なことは考えず。と言うよりも、考えられず。それこそテニス部の仲間を上げるのと似たような感覚で彼女を迎え入れたつもりだったのだが。 「何もなかばってん、適当に座っとって」 「わーい、お邪魔しまーす! あ、本当にこたつある! ねー、入っていい? いい?」 「ん、そこスイッチ」 部屋に上がるやいなや、彼女は目当てのこたつに対してこれ以上ないほどに瞳を輝かせていた。 こたつ自体は大して珍しいものでもないと思うが、寒さに耐え抜いたあとのそれがよっぽど嬉しかったのだろう。ごそごそと布団を捲りながらその中へ潜り込んでいく彼女を純粋に微笑ましく思いつつ、(普段はめったにせんけど、一応)ささやかではあるがもてなしの用意をした。 「、みかんばあるとよ。食う?」 「えっ? みかん? 食べる食べる!」 数日前から部屋の隅に置きっぱなしにしていた段ボール箱に手を突っ込み、その中を漁った。実家から送られてきた小玉みかん。送られてきたその日にいくつか食べたが、まだまだ大量に残っていたそれを片手で取れるぶんだけ取り、そのまま彼女が待つこたつの上にごろりと置いた。 「ありがとー! こたつとみかんって最高だよね」 「はは、そんならよかった。さて……と。今のうちに家のこつばやるかねえ」 「え、千歳は? 入んないのこたつ」 「、」 様々な偶然が重なり、たまたま部屋にあったこたつとみかん。それらに対して彼女が喜んでくれたことはある意味本望であり、素直に嬉しかったのだが。 「……あー、俺は後でよか。気にせんで」 件のこたつは(この時期以外は)普段使いのテーブルと兼ねて使用しているもので、元々そこまでの大きさではない。それこそ俺の身長や体格から考えると、二人で入るのには物理的に無理がある代物だった。 どうにかして入ったところで確実に足が当たる。かと言って、既に彼女がその中に入っている以上、布団を捲ってその位置を確認するわけにもいかない。 つまり、彼女を部屋に招いたその時点で俺にとってのそれは入るに入れない場所へと変わってしまったのだ。 もちろん、元々の権利は客人である彼女に譲るつもりだったため、それがどうとかの問題ではない。ただ、色々な意味でどこまでも無邪気な彼女の問いかけに、俺は何とも言い難い複雑な気持ちでそう答えていた。 「そしたらテレビ見てていい?」 「ん、よかよ」 我ながら必要最低限の家具以外は何もない部屋の中、彼女は唯一の選択肢であるテレビに目を向けていた。めったに見ることもなくほとんど部屋のオブジェと化していたそれが彼女によって久々に息を吹き返す。 「どうしよう相撲とニュースしかやってないんだけど」 「はは……まだ夕方やけんね」 「んー、ドラマの再放送とかあると思ったんだけどな……まあいいや、適当にニュース見て待ってるね」 「、」 似たようなニュースばかりが並ぶチャンネルを何回かいじったあと、ようやく適当なものに落ち着かせた彼女はこてんと寝そべりながらそう呟いていた。 彼女の性格上何の気なしの発言だったとは思うが、どうやら彼女が俺を気にしない間、俺もまた彼女を気にせずに家のことをやっていていいらしい。 お互いに自由気まま。こたつに入れないことからのそれだったとは言え、俺にとってはかえってありがたい展開だった。(もちろん、彼女がいることが迷惑だとか、ましてや嫌なわけではない) 「すまんね、何も構えんで。先に色々済ませるけん、ちょっとん間好きにしとって」 「うん、わかったー」 干しっ放しの洗濯物を取り込む作業も、溜め込んでしまっていた洗い物も、ある意味彼女のおかげで済ませられたと言っても過言ではなかった。(もっとも、一人分である以上どちらも大して時間はかからなかったが) 磨りガラスに映る白とオレンジの散光が、薄暗い灰色に入り混じっていく。泡の残った洗剤の香りがする台所の窓からはうっすらとした落陽が差し込んでいた。カチャカチャと擦れる食器の音に、背中で聞き流すニュース。そして、その落陽。一日、特に冬場のそれが終わっていく速さを痛感したところで、しばらくぶりに彼女に声をかける。 「ー」 「……」 「……?」 「……ぐう」 「ありゃ……(しまった)」 ……さすがに構わなすぎてしまったことを反省しても、時既に遅し。 よかれと思ってのそれは見事に裏目に出ることになり、彼女はこたつの温もりと共に夢の世界へと旅立ってしまっていた。 そして、現在に至る。夕方から夜へと変わっていくそれと同じように、付けっ放しのテレビから流れていたはずのニュースもいつの間にかクイズ番組へと変わっていた。 『はいっ! それでは次の問題です! 海の生き物に関する漢字の読みを方をお答え下さい!』 「……」 クイズ番組のわりにはやたらと派手なセットに、軽快なイントロ音。人の気も知らずにやけに明るい雰囲気のそれらに微妙な気持ちになりながらも、彼女が目覚めるのを待つついでに何となく参加してみる。 鮪。(マグロ。簡単ばい) 鯨。(くじら) 烏賊。(いか) 太刀魚。(たちうお。おお、意外といける) 海豚。(いるか) 柳葉魚。(? ほー、ししゃも) 翻車魚。(んん? 何ねこりゃ) 何となくだったはずのそれについつい夢中になってしまうと同時に、この手の問題はなぜいつも、突然レベルが上がるのだろうと思う。七問目に出題された見たこともない漢字の読み方に手こずっていたそのとき。 「んん……」 「、」 部屋の中に響いたのは、寝起き特有の少し掠れたような声だった。同時に、もぞもぞと布団が動く。どうやら、俺が思ったよりもずっと早い目覚めを迎えようとしているようだ。ホッとした反面少しだけ寂しくもあるような気持ちで声をかけると、うつらうつらと目を擦る彼女ときょんと視線が合った。 「ああ、よかった。起きたとね」 「あれ? 何で千歳……!?」 目の前は、俺と壁。そして、見慣れない布団に包まれているこの状況。 数秒の間を空けたあと、ようやく状況を把握した彼女は突然何かのスイッチが入ったかのように慌てて飛び起きていた。 「嘘っ!? 寝てた!? ごごご、ごめ! (ゴツン!)あっ、痛い!」 「、」 彼女を包んでいた布団が勢いよく捲れ上がると同時に、ゴツンと鈍い音が聞こえた。おそらく、飛び起きた拍子に足をぶつけたものだろう。まるで漫画のように絶妙な流れで、気の毒だが面白い。いや、面白がっている場合ではないのだが。 「あーあー。そぎゃん慌てんでもよかよ」 「(うう……痛い……)いや、慌てるでしょ! えっ、ちょっと待って本当に恥ずかしいんだけど……あたしいびきとかかいてなかった?」 「はは、かいとらんかいとらん」 「本当に? 正直に言ってよ」 じろりと疑いの眼差しを向けきた彼女の顔は、信じられないほど真っ赤に染め上げられていた。あれだけ無防備に眠ることができるわりにそこは気にするのかとも思ったが、喜ぶ顔。寝顔。慌てた顔。そして、今の真っ赤な顔。ころころと目まぐるしく変わる彼女の表情に、思わず小さく笑う。 「ほんなこつかいとらんかったけん、心配せんでよか」 「本当? それならいいけど……その、とにかくごめん長居しちゃって! 今何時? ああもう、寮だからきっと門限とかあるんだよね? 大丈夫?」 「……ああ、その」 忙しない彼女の問い掛けに対し、少しだけ言葉を濁す。どんなに慌てたところで今となっては無意味なことでしかなかったが、それに気がついていない彼女は一人慌ただしく帰りの身支度を始めていた。 ……結局、あの漢字の読み方は何だったのだろう。すっかり答えを見逃してしまったクイズ番組のエンディングが耳を通り過ぎていく。そして、それと同様に(一応存在している)寮の門限を指す時計の針もまた、てっぺんから通り過ぎてしまっていた。 たかが数分、されど数分。学生という身分である以上寮の規則(と言うよりも、シンプルに門限自体)はなかなかに厳しいものだった。「(あーあー)」と、彼女が足をぶつけたときに続き、二度目のそれを脳内で呟く。だが、前述のとおり規則を破ること自体はどうとも思わなかった俺は、今にも部屋を飛び出していきそうな彼女に比べてずっと落ち着いていた。 なぜならば、最悪それに対しての逃げ道はあるからだ。 そしてそれは、既に何度も実践済みだ。厳しいわりにところどころガバガバなせいか、今までで一度もバレたことはない。もっとも彼女、と言うよりも、女子にとってのそれは少し過酷な方法かもしれないが。 「ああ、ちょお待っとって。送ってくと」 「いやっ! いいよ全然! 近いし」 「やけん、こぎゃん時間に一人歩きばさせられんとよ。コンビニついでやけん、ちょうどよか」 「コンビニ……。え、ってゆーか千歳、その……夕飯」 「ああ、そりゃ気にせんで。いつも遅めやけん」 「! ……うう、もう本当ごめん……。あたしが奢るよ……」 「いやあ、そんなんよかよか。……ばってん、」 「……はい」 「高いとこば平気?」 「? え」 「はは。そのー……実はもうそっちやなかけん、出口」 「!?」 数秒前まで心底申し訳なさそうに細められていた彼女の目がぎょっと見開かれる。俺の言葉から門限を過ぎてしまったことは察したのだろう。ただ、問題はそこではない。 この部屋の中でドア以外の出入り口がどこにあるのかと考えれば、答えは一つしかない。もっとも、本来であればそれだって、そもそも出入り口ですらないのだが。 「……程度によるけど、まさか」 立場上から強気に出ようにも出れないせいか、彼女の口調はひどく不安そうなものだった。大正解。そのまさかです。なんて、口に出すよりも実際に目で見てもらった方が早い。そう判断した俺は(さっきは一応気を遣ったが)今度こそ無遠慮にそれに手を掛けていた。 「二階やけん。そぎゃん心配する高さやなかばってん」 「!?」 ガラリと開けたベランダの窓。外から吹きつける風はヒュオォォ……と不穏な音を立てていた。 地上を見下ろす彼女の喉の奥からヒュッと短い息が漏れる。ベランダから地上まで、(あくまでも推定だが)三メートルから四メートルぐらいだろうか。柵さえ超えてしまえば真横には水道管。そして、真下には一階の室外機がある。非常に都合のいい位置に設置されたそれらは手すりや足場の代わりになり、上手く利用さえすれば下に降りて行くこと自体はさほど難しくはない、はずなのだが。 「えっ、何これ? これでどうやって出るの?」 「いや、こん水道管が手すり代わりになるけん。こう、ツツーッと降りればよか。上り棒みたいなもんたい」 「待って待って!? まず上り棒にしては高すぎだし、そんな、ツツーっとなんて簡単そうに言ってるけどさ……」 「はは……やっぱり厳しかね?」 「どうしようすっごい楽しそう」 「、」 自分で言い出したこととは言え、予想外の彼女の言葉に耳を疑った。 反応を確認するかのように二度見するものの、見たところ聞き違いではないらしい。なぜならば、彼女の瞳はこたつを目にしたとき以上に輝きに満ち溢れていたからだ。 そう、ありがたいことに(?)彼女はどこまでも彼女だった。 もちろん、まったく心配がないわけではない。だが、彼女のこの一言によって、俺はいい意味で確信を得てしまっていた。 失敗したところで、怪我さえなければもうそれはそれでいい。そのときは潔く、彼女と共に叱られてしまおう。 「……よっと」 身体能力や体格差の違いから手本になったかどうかはわからないが、我ながら手慣れていたぶん早いもんだと思った。 ベランダから水道管。水道管から室外機。そして、室外機から地上へ。ものの一分もしないうちに地上に到着した俺に対し、パチパチと小さな拍手が聞こえた。 「すごいね! 千歳!」 「はは……(褒められていいもんなのかね、こぎゃんこつで)さ、も来んね」 「あ、うん……」 何の気なしに見上げると、彼女の表情が少したじろいでいるのがわかった。そしてそれは、その場所の高さや降りてくることに対しての恐怖心と言うよりも、もっと別の意味に感じた。 ……ああ、と、密かに理由を察する。いびきを気にしていたときも思ったことだが、こういうところに至っては意外にも(失礼かね?)彼女はとことん女子らしい。 「大丈夫。上ば見んけん。ばってん、怪我だけはせんといて」 助けられんから、と続けながらそっと目線を地面へと移す。きちんと見上げられない以上ここから先は地面に映った影だけでの判断になってしまうが、穏やかな月明かりと共に彼女のそれがゆっくりと動き出していたことがわかった。 ベランダを越えて水道管を伝っていく様子はまるで贅沢な影絵のようだった。足元の地面が巨大なスクリーンとなり、月明かりの照明がそれを照らす。 よしよし、そのままそのまま。ゆっくりでいい。心の中でそんな風に声をかけながら、確実に距離を縮めていく彼女の影を地面越しに静かに見守り続けた。 「、」 数分後、ふらふらと宙ぶらりんに浮いた彼女の片足が視界に入った。(見上げとらんけん、こりゃセーフだとや) 色々な意味で危なっかしくもあったが、彼女のそれはいち早く足場となる室外機を見つけ、そのまま軽やかにそこに舞い降りていた。ここまで来てしまえばあとはもう、そこから地面までわずか数十センチ。当たり前だが女子で、と言うよりも、そもそも俺以外の人間では初の成功例。彼女が成し遂げたその快挙は、なぜだか俺の方が感動してしまうほどだった。 「……はは! すごい、本当に脱出できた!」 「お疲れさん、。すまんかったね、無茶ばさせて」 「ううん、全然! えっ、てゆーかすごいね!? 本当にあんな高いとこから降りて来ちゃったんだね!」 興奮した面持ちで彼女が指差す先には、たった今まで立っていたはずのベランダ。そして、その更に先にある夜空には、地面を照らす大元である少し早めの黄色いお月さんが浮かび上がっていた。まるでそこから降りてきたような錯覚にさえ陥ってしまう。懸念していた怪我をすることもなく、無事に成功した奇跡の脱出劇。俺も、そしてまた彼女も、このときばかりは寒さなんてとうに忘れていた。 「さ、送ってくけん。行こ」 斜め後ろに立つ彼女を右肩で促しながらゆっくりと歩き出す。 再び巨大なスクリーンとなった地面には、一緒に並んだ二つの影が照らされていた。彼女と、そして俺の長い影。 ……正直、単なる気持ちの問題なのかもしれない。だが、少なくとも俺にとってのそれは、さっきよりもずっと明るさが増していたように見えていた。 「ああ、そうそう。連絡とか来とらん?」 「んー……あ、大丈夫。今のとこセーフ」 「そらよかった」 「いや本当、ごめんね。押し掛けたくせに寝ちゃって……けど」 「?」 「楽しかったからまたしたいな、脱出」 「、」 とことん予想の斜め上を行く彼女の言葉に、はたと目を見開く。 本来であればきちんと、健全な時間に返すべきだったこと。そして、今回はたまたま無事に成功することができたが、やはり危険である以上進んではさせられないこと。 邪な気持ちがあったわけではないとは言え、色々な意味で二つ返事には踏み込めずにいる理由が次々と頭の中に浮かぶ。だが、それらはあくまでも建前上のものだ。 本音を言ってしまえば、無防備な寝顔をはじめとした、彼女の表情や反応。それら全てによって、俺の中での彼女に対しての印象や感情が、この一日で大きく揺さ振られてしまっていたから。 ……色々なことがあったが、正直、これが一番予想外の出来事だった気がする。 「いやあ……」 「えー、ダメ?」 「……」 苦笑と共に考え込む俺の顔を、彼女は悪戯っぽく笑いながら覗き込んでいた。良きも悪きも取れるとは言え、物理的な面でも精神的な面でも、やっぱり我ながらよほど信用されているのだと思う。……むしろ、ここまでくると少しぐらいは疑って貰いたいのだが。 (……やれやれ、本当に敵わなかねえ) 二つの影と歩幅が並ぶ、暗くて明るい月明かりの夜道。今はまだ、心の中の悶々とした気持ちまで照らされてしまわぬよう気にしながら、ゆっくりとその道のりを歩いた。 (2019/01/19) |