黄昏時の影法師 (ああ、もうそろそろ塾の時間だ) 夕方十七時過ぎ、窓の外から見える空はひどく不思議な色をしていた。ふんわりと滲んだ絵の具のように、水浅葱と白が混じったような淡い緋色がぼんやりとそれを知らせる。夏の日の長さのせいだとはわかっていても、時間と空の色が一致しないふわふわした感覚にはいまいちまだ慣れない。冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を一気に喉に流し込むことによって頭をしゃっきりさせ、どうにかそれに適応しようとするのがここ数日の日課だ。 「行ってきます」 そう、律儀に口にしながら家を出たわたしの右肩には、塾用のトートバッグの重みがずっしりとのしかかっていた。数冊の参考書、ルーズリーフ、クリアファイル、ペンケース。あとは携帯電話と財布、そして、家の鍵。特別大荷物というわけでもないのにそう感じてしまうのは、おそらく今の自分の精神状態のせいだろう。 わたしは来年、受験生だった。 「ああ、そうそう。塾の入会手続きしておいたから来月から通いなさいね。火曜と金曜、週二回」 「え、何それ」 「何それって、あなた来年受験でしょう」 今からほんの三ヶ月前。春休みも半ばの三月の終わりの頃。言葉どおり、受験なんてまだ来年=遠い未来の話だとしか思っていなかったわたしにとって、母親から告げられたそれはまさに青天の霹靂と言ってもいいものだった。 自慢じゃないけれど(と言うより、別に自慢にもならないのだけれど)この一年、わたしはごくごく平均レベルの成績をキープし続けていた。テストの点数は大体70点から80点台、通知表に並ぶ数字はほとんどが"3"。……決して群を抜いて良いとは言えないものの、塾通いを強いられるほど悪いわけでもない。 「ええー……。そ、それはそうだけれども……。で、でもまだ来年だよ? 塾って何? 早くない?」 「何言ってるの、早い子はもうみんなとっくに行ってるじゃない。むしろ遅すぎるぐらいよ」 「いや、さすがに遅すぎってことはないでしょ……た、多分」 「(……)もう、まったく誰に似たんだか」 とりあえずは反射的に言い訳をしれみたけれど、呆れたように首を振る母親の深い溜息は一気にプレッシャーへと変わっていた。そしてそれは、更なる言い訳を考えてみても同じことだった。自宅、そして学校。毎日毎日、何の疑いもなく過ごしてきた二つの世界。部活や委員会に入っているわけでもなければ趣味や夢中になれるようなこともなく、ただただその世界を往復するだけの毎日は、良く言えば健全。悪く言えば暇なだけであって。 「え、えーと……でも、ほら……」 「はあ……。どうせ何もないんでしょ。とりあえずは週に二回だけなんだからちゃんと通いなさい」 ごにょごにょと口籠るものの、二度目の深い溜息に何も言い返すことはできず。結局、わたしは母親の宣告に従わざるを得ないまま、四月の進級と同時に塾に通うことになってしまっていたのだ。 「あっつ……」 塾通いを始めて早三ヶ月。気がつけば、季節はあっという夏に差し掛かっていた。 ふんわりと淡いのは空の色だけで、実際の日差しは夕方になっても容赦がなかった。普通に歩いているだけでも噴き出てくる汗を懸命に拭いながら、行きたくもない塾へと向かう。自宅からアーケードに覆われた商店街へ。商店街から裏通りを抜けて、駅前の塾へ。 徒歩三十分程度のその道のりでは少ないながらも色んな人に出会う。タバコ屋のおばあちゃんや買い物帰りのどこかのお母さん。遊び疲れた顔で家に帰る小学生の集団や犬を散歩させているおじさん。……基本的には出会ったところでどうってことのない人たちばかりで、直接的に関わることなんてほとんどない。けれど、中には当然出会いたくないタイプの人もいる。 「――やって、達也が言うとったけん」 「マジでーぎゃはは!」 「、」 やたらと大きくて品のない笑い声が聞こえてきたのは、ちょうど商店街から外れる寸前のことだった。駄菓子屋さんだったか酒屋さんだったか、とにかく今はもう、とっくに閉店してしまっているお店のシャッター前。(だらしなく着崩しているとは言え)辛うじて制服を身に纏っている以上、同年代は同年代なはず……だけれども、とてもそうは見えない男子の集団がたむろしていた。 見た目や雰囲気だけで決めつけてしまうのはどうかと思いながらも、彼らの着ている制服から色々と察する。それは同じ市内の別の公立である、獅子楽の制服だった。(そう言えば、風の噂で何となく聞いたことがある。どの地域でもそれぞれの学校によって色や系統があるように、獅子楽はやんちゃなタイプの生徒が多いらしいって) 少しだけ気にはなったものの、本来であれば彼らだってタバコ屋のおばあちゃんたちと同様の存在だった。直接的に関わることもない以上、単なる通行人として、ただただ黙ってその場を通り過ぎればいい。そう思っていたのだけれど。 ……どうしても、(自分も含めて)同年代ぐらいの相手だと何となく目がいきやすいせいだろうか。彼らは目の前を通り過ぎようとするわたしの存在に気づくやいなや、明らかにわざとらしく静まり返っていた。 「……」 「……」 「(え、何かすごい見てない? うう、怖いよ……)」 じろじろ。ニヤニヤ。上から下まで纏わりつく品定めのような視線は、決していわゆる自意識過剰からくるそれではなかった。不快感と緊張感で途端に足取りが重くなる。実際はたったの数メートルだというのに、何だかとてつもなく長い距離に感じた。そして。 「――どぎゃんと?」 「んー、フツー」 「大したこつなかっちゃろ。つーか地味」 「(!)」 ……全部が全部聞こえたわけではない。けれど、ひそひそとした会話の中で嫌でも聞こえてきてしまった「フツー」や「大したことない」などのワードは、おそらく九割方わたしに対して言っているのだと思った。もちろん、自分で自分のことを可愛いとか、そんな風に思っているわけではない。けれど。けれど。けれども。 ……品定めのような視線からの一方的なその評価に、どうしようもない不快感がより一層増していく。ただ、だからと言って気の弱いわたしには「ええ、どうせ大したことありませんよ悪かったね!」なんて言い返せるわけもなかった。 悔しいけれど、やっぱりできるだけ関わないようにするしかない。そう、自然と足を速めたそのとき。 「っ!? (ぎゃっ!?)」 ……単なる偶然か、それとも早足になった結果かはわからない。けれど、何もよりによって、このタイミングでそうならなくてもいいのに。 何もない場所であるにもかかわらず、サンダルを履いたわたしの左足首はまるで何かに躓いたように、カクンと外側に向いてしまっていた。勢いよくその場に崩れ落ちると同時に、「おおっ」と、どこか歓声にも似た声が上がる。もちろん、全然嬉しくない。痛いし恥ずかしいし情けないし、最悪だ。 「あ、コケた!」 「ハッハー! 大丈夫かあ? かわいそー」 「(ーっ!?)」 げてげてと、心底面白そうに笑う声が耳元を通り抜けていく。……さすがに怒ってもいいんじゃないかとも思ったけれど、もはや色んな感情が湧き上がりすぎてそんな気にもなれない。とりあえず、まだ制服じゃなくて、と言うよりスカートじゃなくてよかった。本当によかった。(それこそスカートのまま転んでなんていたら何を言われていたかわかったもんじゃない、考えただけで恐ろしい) 「……」 「あ、立った」 「何ね、もう行っちゃうと? バイバーイ」 「ぎゃはは! そろそろやめとかんと、泣かれたらどぎゃんすっとね」 「(もう、うるさいうるさいうるさいうるさい!)」 背後からはいまだにげてげてと笑う声が聞こえていたけれど、言い返す勇気と同様、振り返って睨みつける勇気ももちろんなかったわたしは、地味な痛みと(色んな意味で)赤くなった表情を必死で隠して立ち上がったあと、逃げるようにその場を去っていた。 (……もう、本当に知らない。獅子楽の人たちなんてみんな滅亡しちゃえばいいのに) 怒りのパワーはすごい。恥ずかしさよりも悔しさからくるそれの方が勝っていたわたしは、あっと言う間に商店街を駆け抜け終えていた。アーケードの角を曲がったその場所にて、ようやく聞こえなくなった笑い声にホッと胸を撫で下ろす。(いっそのこと最初からこうすればよかった。そうすればあんな目に合わなくて済んだのに) ヤンキーはもちろん、そもそも人がいない、商店街以上に閑散とした田舎の裏通り。さすがにここでは嫌な思いをすることはないだろう。ひたすら真っすぐに伸びるその道を抜ければ、塾がある駅前まであとほんの少しだ。 (……色々あったけど忘れよう。それより早く行かないと) 相変わらず不思議な色ではあったものの、少しだけ色濃くなっていた空を見て、時間の進み具合に気づく。とりあえずは気持ちを切り替えて、本来の目的である塾に向かおうと二つ目の角を曲がろうとした。けれど。 ……わたしが気づくべきだったのは空の色よりも、その角の向こうから伸びていた長い影の方だった。 「、おっと」 「きゃっ!?」 微かな汗の匂いと共に視界に飛び込んできたのは、白に包まれたオレンジ色だった。正体は、羽織られた制服のシャツと、その中に着ているTシャツ? の色。出会い頭、正面から勢いよくぶつかってしまったその衝撃に、ほんの一瞬、呼吸が止まる。 ……たったの一日で、それも、この短時間で二度も転んでしまうことなんてあるのだろうか。 一度目は横に。そして、二度目となる今は後ろに。跳ね返されるように尻餅をつかされたことによって、わたしの臀部にはさっきのそれとは比べ物にならないくらいの激しい痛みが走っていた。 「! うう、痛たた……」 「……大丈夫と?」 「、」 随分と上の方から聞こえてきたのは、ふんわりとした緋色によく似合う、ひどく穏やかな声だった。おそらく、ぶつかってしまったその相手だろう。いまだに尻餅をついたままである以上ありがたいやら情けないやらではあったものの、少なくとも、その声のトーンからしてさっきのような相手ではないに違いない。すっかりそう思い込んでしまったわたしはそのままゆっくりと顔を上げた。 「あっ、すみません……大丈夫で……っ!?」 すぐさまぎょっと目を見開く。なぜなら、目の前に立っていたのはついさっきトラウマを植え付けられ、滅亡を願ったばかりの獅子楽の制服を着た男子だったからだ。彼らと同様に着崩した制服に、明るい髪。とどめにピアス。……正直、それだけでも怯えてしまう要素は充分だと言うのに、その男子はとにかく身長が高く、大柄で。(180? 190? いや、何なら2メートルぐらいはあるんじゃないだろうか)ちょうど逆光になっているせいか顔や表情こそはっきりとは見えないものの、何と言うか、明らかに風格が違っていた。 「……」 「(どどどどうしよう、怖い。無理。泣きそう。ごめんなさいごめんなさい、ぶつかっちゃって本当にごめんなさい)」 じいっと、黙ったままわたしを見据えている視線から逃げるように顔を背ける。さっきのように直接的な害は被っていないとは言え、非常に嫌な意味でドキドキしていた。 「、」 「!? (ひっ!?)」 横目で見た長い影は、まるで何かに気がついたようにゆっくりと動き出していた。ぬらりと覆い被さってくるような体勢。そして、それに合わせて暗くなっていく視界に、再び目を見開く。 (えっ!? 待って待って何何!? 怖い!) 殴られる。お金取られる。拉致される。最悪、犯される(!)。 ……何度も言うように、見た目や雰囲気だけで決めつけてしまうのはどうかと思うものの、立ち上がることさえままならいほど恐怖心に支配されていたわたしの脳内には、あまりにも勝手で壮大すぎる想像(と言うよりも、もはや妄想だ)が繰り広げられていた。けれど、次の瞬間。 「ん」 「……?」 短い一言と共にずいと差し出されていたのは、塾用のトートバッグだった。もちろん、紛れもないわたしの私物だ。 「あ……」 チカチカと瞬きをしながらこっそりと右肩を確認すると、確かにそこにあったはずの重みはいつの間にかなくなっていた。そしてそれは、必然的に影が動いたその理由にも繋がる。……要するに、目の前に立っている彼はわたしが落としてしまったそれを拾ってくれただけだったのだ。 一方的に抱いてしまっていた恐怖心が、みるみるうちに薄れていく。けれど、代わりに込み上げてきたのはこれ以上ないくらいの羞恥心だった。(別件でのきっかけがあったとは言え)善意から拾ってくれた相手に対して何てことを考えてしまったのだろう。自分自身の過剰な自意識といきすぎた妄想にカアッと頬を赤らめる。恥ずかしい。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。 「! す、すみませんっ!」 尻餅をついたままの状態からようやく立ち上がることはできたものの、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったわたしはひったくるようにそれを受け取ってしまっていた。 「、」 「(あっ、まずい。今のはさすがに失礼だったかもしれない)」 恐怖や嫌悪ではなく純粋な恥ずかしさからくるそれだったとは言え、ほんの一瞬、彼の大きな手が驚いたように反応したのがわかった。違う、そういう意味じゃない。親切にしてもらった手前そこだけは否定しようと慌てて視線を向け直す。 「あ、あの……」 「……」 「いや、その……」 緋色の空は、ますます強い逆光になっていた。相変わらず顔や表情ははっきりと見えない(と言うより、見れない)けれど、やっぱり大きい。必死で見上げた首が痛くなるほどの身長の高さだ。物理的に仕方がないとは言え、見下ろされるだけで何とも言えない緊張感が走る。お礼と謝罪。本来であればたったの一言二言で済む言葉のはずなのに、たどたどしく口を動かそうとすればするほど、どうしても最初の一言が出てこない。……そして、結局。 「(ーっ! ご、ごめんなさい!)」 「あ」 ……善意で親切にしてもらったにもかかわらず、一方的な恐怖心を抱いてしまったこと。そして、ろくにお礼も言えないまま失礼な態度を取ってしまったこと。それらに対しての罪悪感こそ感じていたものの、どこまでも勇気と意気地のないわたしはきちんと言葉にすることができなかったどころか、それを免罪符にして再び逃げ出してしまっていた。 (ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい) 届くはずもない。けれど、せめて心の中だけでも繰り返さざるを得ない。 景色も心情も震えるように揺れる中、すれ違いざまに短く呟かれた一言と背後に伸びたままであろう長い影を置き去りにしてひたすらに走り続けた。 |