おとしもの 赤ではない。橙でもない。正式な名前は知らないが、もっと薄くて複雑な色をした夕日が、ガキの頃から変わらない見慣れた風景を徐々に徐々にとぼかしていく。ノスタルジーに浸るにはまだ早すぎる気もするが、俺はこの時間帯の空気感、特に、今の季節のそれは決して嫌いではなかった。 「俺ら――おるけん、千歳もあとで来んね」 「おー、気ぃば向いたら」 数時間前の俺の返事はそんなものだった。だが、久々に部活以外で学校に行った時点で、既にその予兆はあったのかもしれない。夕方17時、いや、18時ちょい前。珍しく本当に気が向いた俺は、一人仲間の元へと向かおうとしていた。 (狭い町だ。時間や場所が明確なものでなくとも、適当に歩いてさえいれば嫌でもその辺で会うだろう) 「きゃっ!」 「、」 胸元の当たりに何かがぶつかったような衝撃を感じたのは、駅前から少し離れたアーケード街へ向かう途中の角を曲がった瞬間のことだった。痛みこそ感じなかったものの、突然のそれに思わず「おっと」と呟く。……一体何が起きたのだろうか。いまいち状況が理解できないまま下を見下ろすと、人が。それも、女子が尻餅をついていた。 「うう、痛たた……」 「(!)」 尻餅をついているその姿を見て、出会い頭にぶつかってしまったのだと把握する。 ……しまった、ぼんやり歩きすぎた。なんて、今は反省している場合ではない。実際俺自身に非があるかどうかは疑問だが、尻餅をついているのは知らない人間、しかも女子ときている。俺自身は「おっと」で済ませられる程度のものでも、万が一怪我でもされていたらまずい。 「……大丈夫と?」 声をかけると、すぐに「大丈夫です」という返事が返ってきた。色々な意味で完全にそうとは思えなかったが、とりあえず怪我はなかったようで少しだけホッとする。(おそらく気ぃば遣ってくれたんやろう。ありがたい)だが、目の前の彼女は俺を見上げるやいなやぎょっと、今にも零れ落ちそうなくらいに大きく目を見開いていた。 「!?」 「? (おお、大きな目ばい)」 丸いそれが更に丸くなり、白目の面積が一気に広がる。……理由はさておき、人間の目はここまで大きく見開けるものなのかと、興味深さからじいっと視線を向けてしまったそのとき。 「(、)」 視界の端に入ったのは、少し離れた場所に落ちていた白い手提げだった。おそらく、ぶつかった拍子に一緒に吹っ飛んだのだろう。つくづく申し訳ないと思いながらも、ゆっくりと手を伸ばしそれを拾う。 「ん」 ずいと差し出したそれが、遠心力でぷらりと揺れた。状況としては、ただ単に拾った物を差し出しただけ。それなのに、やたらと忙しない印象だったのは、目の前に差し出した瞬間の彼女の瞬きがあまりにも速かったからだろうか。チカチカと、面白いぐらいの速さで上下する瞼の動きに、再び視線を向けてしまう。 「! す、すみませんっ!」 「、」 ほんの少しの間を空けたあと、聞こえてきたのはひどく慌てた様子の声だった。同時に、差し出していた手提げは一瞬にして俺の左手から姿を消し、元々の持ち主である彼女の元へと渡っていた。……正直、受け取られたと言うよりはひったくられたと言った方が正しい勢いだったが、元々は彼女のものである以上、少し驚いた以外は何をどう思ったわけでもない。とりあえずはよかった。 そう、本来であればすべてここで終わる話で、それこそ俺はそのまま何も言わず、再びアーケード街に向かうはずだった。 「あ、あの……」 「?」 聞き逃さなかったのが奇跡とも言えるほど、あまりにも小さく、蚊の鳴くような弱々しい声。だが、不意に彼女の口から発せられたそれは、状況からして明らかに俺に向けられていたものだった。直接的に呼び止められたりしたわけではないが、必然的に足を止める。 「……」 「えっと、その……」 「……」 ……わざわざこれぐらいのことでとまでは思わないが(そもそもこの流れで呼び止められる理由なんて、せいぜい礼を言われるぐらいだろう)、呼び止められた以上、俺としてはそのまま彼女の言葉を待つつもりだった。ところが、何かを言いたそうにしている様子は伝わるも、彼女の口からそれ以上の言葉が出てくることはなかった。 別に時間を気にして急いでいたわけでも、ましてや礼を求めていたわけでもないが、もじもじとじれるだけの彼女に対して疑問の意味で眉根を寄せる。そして、次の瞬間。 「あ」 ようやく立ち上がったかと思ったら、彼女はそのまま振り返ることもなく、俺の目の前から走り去っていった。 単刀直入に言えば、逃げられてしまったのだ。それも、(たまにいる)喧嘩を売ってきて返り討ちにした野郎相手からではない。初対面の女子。もっと言えば、一応は親切にした相手から。 「(ええ、何ね一体……)」 よくわからないまま、脱兎の勢いで走り去っていく彼女の後ろ姿を呆然と見送る。……正直、腹が立つと言うよりは普通に凹む出来事だったが、色々な意味で仕方がないと納得するしかない。気を取り直し、今度こそアーケード街の方向へ向かおうとしたのだが。 「、」 動かそうとした左足の隣に、もう一つの落とし物を発見した。彼女も、そして俺も。実際に見落としてしまっておいて何だが、さっきの手提げに引けを取らないくらいに存在感があるそれは一枚のクリアファイルだった。くしゃくしゃに丸められたレシートやたばこの吸い殻でもあるまいし、道端にそんなものがゴロゴロ落ちているはずがない。九割方今の彼女のものだろうと踏んだ俺は、ゆっくりとそれを拾った。表っ側にはキャラクターのイラスト。裏っ側の下の方には"――ゼミナール駅前校"とプリントされていた。学校にさえろくに行かない自分とは無縁の場所でも、さすがに名前くらいは聞いたことがある。そこそこ有名な塾の名前だ。市内にもいくつかあるみたいだが、徒歩で移動していたということは、おそらく駅前のビルのところだろう。 「ありゃ……」 ……さて、どうしたものか。再び拾ったはいいものの、思わず頭を抱える。 いっそのこと、ただのゴミならまだよかった。見て見ぬふりができる。だが、彼女が落としていったそれは、とてもじゃないがこのまま見て見ぬふりはできない代物だったのだ。 はあと溜息をつくと同時に、再びそれに視線を移す。クリアファイルの中に挟まれていた一枚のプリント。右上の名前の記入欄には、おそらく彼女本人のフルネームが記入されていた。。……まさか、たった数分前にぶつかっただけのまったく知らない相手に翻弄されることになるとは。 走って追うか? いや、自分で言うとますます凹むが、普通に接しただけで逃げられた身だ。気まずいことこの上ない。それならば、塾の名前と共にプリントされている連絡先に電話をかけてみるか? いや、それも何だか気が進まない。既に俺の手元にある以上、連絡を入れてみたところで届けに行くのは俺自身だ。 ……少なからず原因に加担してしまった身とは言え、正直、かなり面倒なことに巻き込まれてしまったと思った。大体、これがいつ必要なものなのかも、何なら本当に必要なものなのかさえもわからない。ただ。 「……」 そのまま真っすぐ動かそうとしていた左足を、アーケード街から逆の方向へゆっくりと向け直す。気が変わった。あいつらとの約束はまたでいい。 無事に渡せるかどうかはわからないが、どうせ暇なのでこのまま駅前の塾まで届けに行ってみることにした。 (2021/01/16)
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